講座レポート
エロスを記録する
[討論](1)藤川佳三+藤川幸子+原一男(2)小林佐智子+原一男
Q&A前半
ドキュメンタリーを撮る際に、作品を通して、あるいは被写体を通して、何か普遍的なものや、人間の本質のようなものをあぶり出したい、という意識はあるのでしょうか?最近のドキュメンタリーを見ると、そういうものを映せていなければ作品として外に出す意味がない、と考えているように感じるのですが、原監督の作品は、被写体も極端な人ばかりだし、映し方もまた極端で、とにかく興味や好奇心ばかりを感じます。つまり、大義名分というものを全く意識していないように見えます。それなのに、作品は外へ外へと向うエネルギーが満ちていて、ものすごく面白いし、国境さえも越えて評価されています。原監督は自身の作品が高く評価される所以はどこにあると考えておられますか?また、作品を作る際に、監督の中心にあるものは何なのでしょうか?
「普遍的なものや、人間の本質のようなものをあぶり出したい」という欲求は、いつも、あります。というより、そういう人間とは何か?という問いに答えられるレベルの作品にしないと、世に出す意味がない、とさえ考えています。
「被写体も極端な人ばかりだし、映し方もまた極端」という指摘は、正鵠を得ています。疾走プロ4作品は、まさに、そういう"極端"な人を選んでいました。それは、そういう"極端"な人の"極端"な生き方、考え方が、観る側=観客にとっても、大いに刺激になり、生き方を問い直すきっかけになるはずだ、と思っていました。「大義名分」を意識してないわけではありません。が、まず、映画はオモシロクなければならない、という信念がありまして。あくまでもエンターテェイメントであるべきだ、という考え方です。
昭和が終わって平成へと時代が変わって、そういう"極端"な生き方をする人がいなくなってきたなあ、と思います。つまり、"極端"であることを時代が許さなくなってきた、というふうに考えています。これは、作り手にとっては、つまらなく、オモシロクないことです。別の言い方をすれば、抑圧が強くなってきた、あるいは、自由な生き方が押しつぶされ手きた、という感じがするということです。この問題は、様々な問題点を孕んでいると思います。いつか、展開したいですね。
「外へ外へと向かうエネルギーが満ちていて」という指摘は、とても嬉しいです。それこそが、私(たち)の目指している映画ですから。「外へ」という場合の「外」とは何か? ということですが、秩序の外へ、つまり、秩序に縛られない「自由へ」向かって、ということを意味しています。
海外で高く評価される所以は? という質問ですが…オーストラリアでは、「アウトサイダー」と言われ、ブエノスアイレスは、「秩序破壊者」と言われました。タブーを壊す、ということは、よく指摘されます。そんな理屈と同時に、パワフルである、という指摘も、よく頂いています。海外の人たちがそれなりに関心を持ってきたニッポンドキュメンタリーの中でも、異色だと受け止められているようです。
「弱さを人目にさらす」価値とは?
出演に同意していない子どもが、今回ゲスト出演を拒否した問題について、どこまで責任が取れるのか?
映画が介入することによって、対象に悪影響を与えてしまうことについて、どのように責任を果たすのか?
私(たち)が映画を撮り始めた頃、“全共闘運動”が盛り上がった時代でした。私は今でも、この運動から大いなる刺激を受けたと思っています。その時代、もしかしたらこのニッポンにも革命が起きて世の中が大きく変わるかもしれない、と思っていました。そして、その革命運動に自分も参加したいものだという思いも強くありました。それには、どうしようもなく怠惰で、弱気で、引っ込み思案で、というダメな自分ではなく、タフな自分でなければならない、と考えました。ですからこの当時の自分を支配していた感情は、ただただ"強くなりたい"と思っていたものです。そんな私が映画を作ろうとしたときに、作品毎の主題の中に、この"強くなりたい"という動機が、入り込んでいきます。ドキュメンタリーとは、カメラの前の相手=被写体と私が向き合うワケですが、格闘技のようなものだと私は考えています。必然的にタフな相手を主人公として選んでしまうのは、そういう必然があってですが、向き合う私の方は、全然強くないワケですから、私にできることは、強い相手と格闘するときに、相手から絶対に逃げないこと、を言い聞かせているワケです。そしてそのプロセスを作品という形で観客に晒していくしかないんだ、と考えています。自分は、こんなふうに闘ったんだが、皆さん、どう思います? と問いかけていく行為が映画なのではないでしょうか?
「出演に同意していない子どもが、今回ゲスト出演を拒否した問題」について、その責任は? という質問ですが、たしか、会場で質問されたときに、「責任なんてとりようがない」と答えましたよね?
この場合の"子ども"って、私たちの子どもなワケですよね。子どもっていう存在は親の意向に従わざるを得ない、そういう存在なのではないでしょうか? それは、親にしてみれば、自分たち親の生き方を子どもには、包み隠さず見せておくべきだ、という考え方があってのものです。その子どもも、やがて人格を持った大人へ成長していきます。当然、自分の考え方=価値観を持っているわけですから、親の意向に従わせるワケにはいきません。子どもの側に選択する権利があります。そんなふうに思っていますから、今回、私は、"相談したいことがあるんだが…"と、あくまで"対等"な彼に話を持っていったワケです。結果は、断られてしまった、と皆さんに説明したとおりです。
ただ、親である私にとっては、子どもが、断る、という選択をしたことについては、とても残念なことだと思っています。武田美由紀も私も、親である自分たちの"生き様を晒す"という生き方を絶えず選んできた身にとって、彼が断った理由は、他人に自分の生き様を晒したくない、という、親の考え方と真逆だったからです。親の生き方を、どんなに恥ずかしいと思われるようなことでも、子どもには全部見せておきたい、と考え、育てたつもりなのに、その親の思いが、全く伝わっていないじゃないか!と私には思えたからです。
「映画が介入することによって、対象に悪影響を与えてしまうこと」の責任について、ですが、誤解を恐れずに言いますが、責任なんかとれっこない、と思うのです。
「神軍」を例にいいますと、私たちが奥崎謙三さんの映画を作ろうとしたから、奥崎さんは、元中隊長の息子に銃を発砲し、重体を負わせた、その責任をあなたたちは、どうとるのか?というものです。だから、映画を作ろうとしなければ、奥崎さんは、銃を発砲することはなかった!ということになります。ですが、そうなのでしょうか? 奥崎さんは、あの悲惨なニューギニア戦線での、喰うものも喰わせず、武器も満足になく、戦争を命令した天皇裕仁に戦争責任がある、という考え方を持っています。その考え方を進めて、天皇を生みだすシステムがある限り、戦争はなくならない、と考え、天皇制というシステム全体を壊すべきだと考えるようになります。そんな奥崎さんの闘いにおいて、奥崎さんは、自分の標的を絶えず探しています。ですから、私たちとの映画作りの課程で、元中隊長を標的に選んだからといって、私たちの責任ということになるのでしょうか? こんなふうに書くと、それでは、いかにも無責任ではないか?という誹りを受けそうですが、奥崎さんが犯罪へと向かうことに対しては率直にいって、胸が痛みます。苦い感じは確実に残ります。しかし、作り手の思いは別にして、奥崎さんが、そんなふうに、次から次へと標的を探し、見つけ、実行する、という生き方の全体像を描いて、観客に提供することこそが、私たちの義務だと思うのです。
今回のプログラムの中に「アヒルの子」が入っています。が、この作品、私が日本映画学校で講師をしているときの卒業制作作品です。監督は、小野さやかと言いますが、4月の新学期、小野の目は白く濁っていました。これは何かツライことを抱えているな、と感じたものです。4歳のとき、親から捨てられ、兄からは性的虐待をうけた、と彼女から聞いたときはビックリしました。そういう自分の過去に向き合うためにセルフドキュメンタリーを作ることになりました。途中経過の説明は省きますが、作品が完成して上映会のときの小野の笑顔は素敵でした。もちろん、目の白濁はキレイにとれて、キラキラ輝いていました。つまり、映画が介入したわけですが、これは、悪影響とは言わないでしょう?
今は、ドキュメンタリーを作るということは、大なり小なり、カメラの対象になった人の人生に影響を与えるということは、いわば"常識"になっています。その結果の"影響"を、悪影響か? 善影響か? の評価は、そんなに簡単に決めつけるわけにはいきません。むしろ、影響を与える力を持っているからこそ、ドキュメンタリーがオモシロイわけです。結果が、「悪」とでるか? 「善」と出るかは、やってみなければ分かりません。しかし、作品に取りかかる前には「善」という結果が出るように願ってるハズです。ですから、結果は、まさに「神さま」が決めるのだと思うしかありません。人間が、判断できのかしら? と私は考えています。
「離婚した(別れた)男女が面と向かって話ができるようになるには、時間や距離が必要である」少々乱暴ですが、そんな言い方もできると思います。僕らの場合は、離婚したときに話ができるような状態ではありませんでした。子供の話は継続的にしなければならないし、会話ができない状態は問題がありました。いざ映画を撮ろうと決めたとき、カメラがあることで距離を持つことができたのです。物理的に二人の間にはカメラが存在することによって、自分の考えをきちんと相手に伝えようという意識が生まれました。相手と話しているけれど、自分と話している感覚になっていきました。自分を客観視する視点が生まれたのだと思います。
しかし、長く継続させていくと(映画を撮影していくと)また違った感覚もでてきて、うまくいかない場面がでてきました。それは、あからさまに復縁を求めていったからです。求愛の気持ちと、カメラを向ける行為が一致してしまったのです。最初はカメラによってうまく距離がはかれたのに、今度はカメラを向ける行為自体が相手を圧迫し始めたのです。こちらは、早く回答がほしい。「もう一度やり直す」と言ってほしいので、それを誘導するような問いかけになりました。すると「今、カメラを向けないで」と云われることが増えました。二人の間にカメラがあることが、だんだん邪魔になってきたのです。「どうしてもっとフラットな気持ちで撮影できないの!」と怒られました。そして撮影はしばらく中断しました。
状況によってカメラの役割が変わったということです。カメラがあることで会話ができるようになったのに、その後はカメラがあることで2人の間に溝を作ってしまいました。カメラは繊細で危うくて暴力性をもったものだと思います。
修復出来なかった関係を作品化する意味とモチベーションは何か?
復縁することが作品の最終の形とは思わなかったということです。確かに最初、映画を撮り始めるときには、復縁したくてカメラを向けるという動機があったわけですが、撮影に二年かかり、編集に一年以上費やす間に、だんだん考えが変わっていきました。映画としては、別れた夫婦がやり直していく物語のほうが美しいだろうし、見る人にとっても納得のいく形かも知れません。ただ現実はそうならなかったのです。過去の結婚生活を振り返り、自分自身の無自覚さや駄目なところを改めようとしましたが、二人の間には解消できないものがありました。変な言い方になるかもしれませんが、僕らは、きちんと離婚してなかったのかもしれません。結婚生活では、うまくいかない事をそれぞれ感じていたけど、二人で一緒に考えることをしてこなかったのです。そういう意味では、この映画は僕らにとって離婚式のようなものだと思います。 また、このような痴話喧嘩のような関係を映画にしようというのは、いかがなものかという意見もあるでしょう。ただ僕は、「自分」という殻のようなものと「他人」との間にあるものを突き詰めていきたかったのです。人と人がどんなに親しくなろうとも、すべては分かり合えないでしょう。僕は、夫とはこうあるべきではないか、父親とはこうあらねばならないとか、自分の中で無意識に形を作ってしまいました。家長である自分の存在意義とか、妻を自分の所有物であるかのような考え方をどこかで持っていたようにも思います。個人的な事ではあるけれど、自分の親の姿を見ながら知らず知らずに刷り込まれた記憶に対して、無自覚すぎました。その上、自分はとても頼りなく幼さを持っていると思います。何かに頼らないとくだけそうな自分です。そういう様々なもやもやしたものを一度映画の表現に勝手に置き換えてみたときに、何が見えるだろうかという挑戦でした。映画は、自意識に対する戦いのようなものだと思っています。セルフドキュメンタリーは特にそういう意味合いが強いと思います。その瞬間に、何が写っているのか。自分の体験を通してカメラを通して突っ込んでいって自分で自分の事がどこまでできるのか、とにかく最後までやってやろうというのがモチベーションだったのだと思います。映画がどれだけ普遍性を持てたかは、正直わかりません。観た人の判断に委ねることになります。ひとつ言えることは、僕と彼女が、自分たちの夫婦生活を振り返り、真剣に自分自身と向き合おうとして自我と格闘したということに、意味があったのではないかと思います。そんなところから、人との関係を考えるきっかけになってもらえればと考えています。
①原さんが武田さんを追って、この映画をつくり始めて、そろそろ撮り切ったかな、終わってもいいかな、と思ったのはどの時点だったのですか?
②映画を作ったことで、武田さんが小林さんとの関係はどう変わりましたか?
(小林プロデューサーへ) 『極私的エロス』を観るのはこれで数度目ですが、一番気になっているのは、小林さんがどういう気持ちでこの映画の制作に参加されてきたのだろう、今観返して何を思うのだろう、ということをずっとお聞きしたいと思っていました(どこかで書いたりしていたらすみません。)しんどくなることはなかったのでしょうか?
①"自力出産"を撮る、ということが目標で撮影をスタートしましたから、武田美由紀の出産のシーンを撮り終えた時、ヤマを越えた、という感じがありました。だけど撮影の途中で、武田美由紀が小林の出産と関わりたい、と言いだし、小林の出産を取り上げたい、ということで、そのシーンも撮ることになりました。ですから、小林の出産のシーンの撮影が終わった時、「ああ、これで終わった!」という実感がありました。で、何か、気が抜けてしまって、何もする気が起きなくて、撮影したフィルムも部屋の片隅に積み上げたまま、放ってました。1年が過ぎて、さすがに、そろそろ編集をしなければ、という気持ちが湧いてきました。その時点で、武田美由紀の「今」を撮影してクランクアップとしようと考え、「東京こむうぬ」のシーンを撮影しました。すると武田美由紀から、最後に最後、私のダンスのシーンを撮って欲しい、というリクエストがあったんです。映画のラストの映像としても、オモシロイかな、と思ったものですからOKして、あれは長岡という街のナイトクラブですが、そこで撮って正真正銘、クランクアップということで、それから本格的に編集に取りかかりました。
②小林は、元々、武田美由紀のことを好きだ、って言ってましたから、映画を撮ったことで何かが変わったということはありません。映画が完成したあとも、武田美由紀から小林の方へと、何か困ったことがあったら連絡がありました。
何度も見てくださって、本当にありがとうございます。
トーク当日、全く同じ質問にお答えさせてもらいました。
それに加えると、初めての映画『さようならCP』を作り終えたばかりで、すぐ次の映画を始めたので、製作的にも、現場的にも、息つく間もない状況でした。
お金のしんどさにくらべれば、撮影の内容については、それこそ"武田美由紀さんの映画を作っている"という充実感でいっぱいでした。
今見ても、武田美由紀さんのカッコよさには惚れ惚れします!
この映画を作りかった理由はわかりましたが、これを観せたかった理由は何なのでしょう?
原さんの「セルフ」は映画を作ることによって、どのように変わったのでしょう?
映画の登場人物、武田さん、小林さん、原さん、ともにその背景(どのような家族のもとで、どう育って現在の個人としてあるのか)は、全く描かれていません。文脈の全くない個人として存在しています。なぜでしょう?
原さんは自分の子どもには、親に興味を持ってもらいたいようですか、ご自身は自己の親が背景にまったく興味をもっておられないようです。なぜでしょう?
「作りたかった理由」と「観せたかった理由」とを分けての質問ですが、この二つは、表裏一体だと思っています。作りたかった理由がすなわち観せたかった理由になります。
セルフを作ることによって私自身がどのように変わったのか?という質問ですが、変わったのかどうかについて、ハッキリ変わったといえるほど変わってないんでしょう。それでも以後の、どんな作品を作る時でも、まず私はどうなんだ?と、自問自答の作業を可能なかぎり深めていく思考法が身についた感じはあります。
武田美由紀や小林佐智子や私にとっての過去、親のこと、それらは、今でも時々考えます。問題意識がないわけではありません。ただ、当時は、「これからどう生きていくんだろう?」と、ひたすら前=未来を向いてたんだと思います。過去のことにカメラを向けようというほどの強い気持ちはなかったんでしょう。過去があるから今=現在があり、今があるから未来がある、という時間を連続性で捉える態度は持っていると思っていますし、時々、カメラを持って過去を映像化しようかな、と考えないワケはないんですが、やっぱり未来へ向かってる時の方が、よりドキドキ感を抱くという体質を私たちが持っているのだと考えています。過去は、どうなってたんだ?という謎解きのミステリアスなオモシロさはあるんでしょう。が未来は、もしかしたら、思わぬ展開によって生き方が変わるかも?というドラマチック性は、私(たち)には、とても魅力的なものです。
私自身は、自分の子どもに、親である私に興味を持ってもらいたいとは思っていません。ですが武田美由紀は、私とは違って、自分の子どもに、とりわけ同性に、つまり女の子には、自分の夢を託す、という気持ちがあるように思っています。
Q&A後半
ドキュメンタリーの出演者は、少なからずカメラの持つ力だったり、撮られることの意味や影響力を自覚していると思います。ただ、子どもはそうした了解ができない、極めて非対称的な存在です。原さんは「子どもを撮る」ことを、どのように考えていましたか?また、考えていますか?
あくまでも「極私的エロス・恋歌1974」を撮っているときは、という限定ですが、私が、女=武田美由紀に向かうエネルギーは、かなり大きなものだっただろうと自分でも思っていますが、子どもに向かうエネルギーは極めて弱かっただろうと思います。子どもって、親の都合によって振り回されるなあ、という感慨を持っていました。そう思うとき、若干の"後ろめたさ"はあったかな、という気がします。ただし武田美由紀は違うだろうと思います。彼女のほうは、子どもに自分の生き様を見せることに意味を見いだしていたと思うし、子どもといつも一緒にいることが、そもそもエネルギーを生みだしていたと思っています。子どもとの関係で言うと男親と女親では、感じ方が違うんだなあ、っていつも思っています。 と書きながら、思い出したのですが、遊ちゃんの映画を作ってみようか、と考えたことがあります。武田美由紀というエネルギッシュな母親を持った娘がどんなふうに成長し、母親を越えていくのか?という関心があったのでしょう。色々、事情があり、実現はしませんでしたが、もし、作るのなら、遊ちゃんを主人公にしなければ意味がない、とは考えていました。つまり、「極私的エロス・恋歌1974」のヒロインは武田美由紀ですが、子どもを撮るなら、子どもをヒロインにしなければならない、と思うのです。
(藤川監督へ)映画を作るきっかけとして「幸子さんと繋がっていたい」ということがあったと思いますが、「子どもと繋がっていたい」という動機はありましたか?
実生活においては、子供の事は非常に大きかったです。離婚するときにも「子供がいるから離婚しないでなんとかやっていこう」と何度も思いました。でも二人の間が限界になってしまったので離婚という結論を出したわけです。子供が一番の犠牲になりました。
ただ、映画を作るという事に関しては、子供の事は頭になかったです。それはなぜかと言うと、子供とはつながっていくという意識があったからです。離婚するときに、元妻との決まり事として、子供とは定期的に会う事や子供の面倒を協力できる範囲でやっていくことを決めていました。「父親でいられる幸せ」は離したくないものです。今でもそれは同じ気持ちです。だから「子供と繋がっていたい」ために映画を作るという動機にはなっていません。
子供に関しては、映画と実生活は別の意識になっています。ただ子供は母が幸せでないと精神の安定も得られないでしょうから、幸子さんへの延長腺で子供たちとの関係を考えていました。
最初の出産シーンで、ピンぼけの画を作ってしまったという反省を語っていますが、普通、子どもが出て来る場面では寄りたくなると思うのですが、ずっとポジションを変えなかったのは、どういう意図、もしくは心理状態だったのでしょうか?また、現在では出産ドキュメントもかなり作られていますが、当時、そういったものに対する扱い方はどういうものだったのでしょうか?
(藤川監督へ)監督自身が被写体になる=カメラを持った第三者が介入することで、本音で語ったり、素の自分を見せることが阻害される危険性は感じませんでしたか?
武田美由紀の出産のシーンをどう撮るか? 色々悩んだんですが、"自力出産"は、武田美由紀にとっては、生き方の総体を懸けた闘いである、ならば、彼女の全身体から発するエネルギーを丸ごと撮るべきである、と考えたワケです。カットを割って、寄ったり、アングルを変えたり、というような映画的技法は、この場合、むしろ必要ないのだ、と考えました。つまり、お産の映画では無い、と思ってましたから。
正面から撮っているワケですから、当然、女性器が映り込みます。この時代、女性器がスクリーンに映り出されること自体が「わいせつ物陳列罪」ということで逮捕されるという危険性がありました。初めての上映は、自主上映会だったのですが会場に、刑事がきてますよ、とスタッフが気づいた、というようなことがありました。でも、以後、私が逮捕されるということはありませんでした。
おもしろかったのは、この映画を見て、「わたしも自力出産をやってみたい」と、自分の出産をボーイフレンドにカメラを回させて、8ミリで撮る、という女の人が、何人も現れたことがありました。
映画では、僕が撮影した映像、幸子さんが撮影した映像、プロデューサー(藤田功一氏)が撮影した映像が混在しています。一番はじめに幸子さんにカメラを向けたときには、自分が映像を撮ってやるんだという意識がすごく強かったのですが、幸子さんと会話ができるようになってくると、自然と幸子さんが僕にカメラを向けるようになりました。幸子さんが自ら何かを撮影したい、または僕に何かを問いたいという意識が生まれてきたのだと思います。そこからキャッチボールをするように交互にカメラを渡しながら撮影するようになりました。幸子さんとまたコミュニケーションをとれたことがうれしくなりました。一度は好きになって結婚した相手ですから、話ができるようになるとそれはテンションも上がりました。再び訪れた恋愛状態だったのです。そして僕らは、僕の実家の四国に旅に出ました。映画の前半では、過去についての事を話すことが重要でしたが、旅に出ると家族の新しい出来事が始まっていく感覚でした。撮影行為よりもとにかく自分が行動して前に向いて行こうという気持ちでした。第三者のカメラがどうのというよりは、この映画で自分の本音と向き合い、素の自分で勝負したいと思ったわけです。旅の場面はプロデューサーカメラがメインカメラになっていきます。場面にもよりますが、そういう気持ちのときは第三者のカメラは気にならないものでした。
カメラといのは不思議なものだと思います。カメラがあれば当然意識します。真実を語っているかのようですが、言葉は自分で作っていくものですし、デフォルメすることもあります。極端に言えばウソもつけるのです。カメラに写るのは、自分自身の表現だと思うのです。また関係性というのは、カメラそのものよりも誰がカメラを回しているかで変わると思います。信頼できる人であればあるほどリラックスした状態で、素に近い姿が現れてくるような気がします。
素材のつなぎは、ほぼ時系列通りなのでしょうか?それとも演出的な並べ替えを行っていますか?
この映画は約二年間撮影しました。大きく構成すれば、①二人で過去を話しあう②四国に旅に出る③その後の生活となります。素材のつなぎに関しては、ほぼ時系列です。後半の出来事は、カメラを回せない時期がしばらくあり、時間が飛んでいますが、事象に沿っています。最後の河内音頭はおまけのようなもので、時系列とは別となっています。
「極私的エロス」の本編に原さんが泣くシーンがありますが、あれは誰が撮っているのでしょうか?そして誰の意志?決断がキャメラを回させているのでしょうか?
ナレーション(劇中の)のみを比較すると、原さんはみゆきさんと「繋がりたい」、藤川さんは「復縁したい」と、そのために映画を撮っていると言っています。藤川さんの場合、夫婦に戻りたい、愛し合いたいというニュアンスを感じますが、原さんの「繋がりたい」はキャメラを回す瞬間、時間、体感そのものが欲しかったと解釈しても良いのでしょうか?しかし、どこかに映画を作る意識がはずです。そこでお聞きしたいのですが、映画をつくる(撮影、編集、交渉など全て)私(原さん)とみゆきさんと繋がりたい故にキャメラを回す私は、全く別ものなんでしょうか?
まず、私が泣いてるシーンですが、あのときだけ、たまたま、私の友人が撮影の様子を見学させてくれということで、現場にいたわけですが、その友人が撮影しました。なぜ、そういう展開になったのかを説明します。黒人のポールにインタビューを撮影して、その翌日、武田美由紀と"サシ" で向き合って話し合うべきだと考えた私は、彼女のアパートを訪ねました。さっそくカメラをかまえ、彼女と会話を始めたのですが、自分でも驚いたのですが、ポールに対する嫉妬の感情が一気に増幅してきたのです。前夜は、嫉妬という感情が沸かなかったし、沸かなかったことを自分自身、ホッとしたのに、です。 だから最初っから、私自身、嫉妬という感情に囚われながらの撮影が始まった次第です。武田美由紀と会話を重ねるに従って、その嫉妬という感情は、ますます増幅していきます。撮影という行為は、カメラマンとしては基本的には冷静さを要求されます。この時、ノーファインダーで撮っています。ですから私は、カメラのフレームに人物がキチンと収まっているのか? ピントはちゃんと合ってるのか? とレンズの距離のメモリを絶えず見ているわけです、さらに100フィートのフィルムを使ってるわけですが、2分46秒しかもたないわけですが、今、これだけ回したから、あと何秒でフィルムチェンジしなければならないな、とか、様々なことを、カメラマンとしては考えなければならない。一方で、嫉妬に狂い始めている自分がいる。この二つの自分が、コントロールできなくなってしまった! ホントに、ああ、これ以上は自分でカメラを回せない!とカメラマンであることを放棄したわけです。ですが監督としての私は、カメラを回せる友人がこの場にいるわけでから、彼にカメラを回してもらおう、と、そう判断したわけです。
私の言う「つながっていたい」という気持ちは、あのとき、まだ、互いに恋愛感情は、燃え尽きたわけではありませんでした。ですが現実には、互いの場は、別々に動き始めていました。ですが、映画を撮ることになれば、共有の時間が保証されます。互いの感情を互いにぶつけ合いながら確かめ合えるわけです。私としては、元に戻りたいという気持ちでは無く、どういう展開になるのかを見届けたい、という気持ちだったと思います。映画をつくる私と武田美由紀と繋がりたい私は、ですから、一体のものです。この一体である、ということが、まさにセルフドキュメンタリーの妙味だと思っています。もう少し詳しく言いますと、彼女に対する気持ちが少しづつ変わっていきます。で、その時々の気持ちに沿って、次は、どんなシーンを撮ればいいのかを考えていった、ということになります。
(小林プロデューサーへ)
女性の意見をお聞きしたいのですが、『極私的エロス』の中にはみゆきさんだけではなく、何人かの女性の性器?裸体が出てきます。なぜ、女性に対していい加減(笑)な原さんに、そういう映像を撮らせる事を、何人かの女性は許したのでしょうか?あるいは、原さんのどういった部分が「撮らせること」を許すのでしょうか?
私は、映画にとって必要なシーンだと思っているからです。
美由紀さんが作られたコミューンは、その後、どうなっていきましたか?
集まる女性達は、どんな人達がいましたか?
映画を撮り終えて、4~5年後に、解散したはずです。武田美由紀たちの運動は、ウーマンリブ運動と一体のものだと思いますが、その運動が退潮していきます。「東京こむうぬ」は、武田美由紀と思想を共有できる女性たちが、武田美由紀を支える形で運営していました。が運動が退潮するとともに、個別の関心事へと個々の興味が別れていきます。必然的に、「東京こむうぬ」は解散へと進んでいきました。
受講者の感想
比嘉 賢多
こんばんは。
受講生の比嘉賢多です。先日は受講初日から刺激的というか、4日が過ぎた今でも上手く言語化できてなく非常に悶々としております。
ある種の不快感もあったと思います。
或いは、人の心(というか藤川さんや幸子さんの心)を覗いてしまっている罪悪感とでも言えそうですが。
稚文ですが、感想を書くので読んでいただき、なんらかの力になれば幸いであります。
26日にアテネフランセで行われた、NEWCINEMA塾の「エロスを記録する」という講義。映画を観る以外にも、ディスカッションや質疑応答などの時間 がありましたが、それらがもはや原さんのドキュメンタリーを観ているような感覚でした。キャメラを持たずとも、対象への一線を「踏み越える」原一男を目の 当たりにして、ドキュメンタリー作家の業のようなものを観た気がして、かなり驚愕しました。
極私的エロスと、サオヤの月を比較した時、同じセルフでもキャメラを回す者の認証性の違い(実際にはどのドキュメンタリーも、誰がキャメラを持っているのかなどわかったものではありませんが)が印象的でした。
後者はその認証性が甘く、夫婦ゲンカのシークエンスで二人がフレームの中に入ってしまうと誰がそのやりとりを眺めているのかが全く不明瞭で、観る者がそん な無駄ことを考えさせられるのは非常にもったいないと感じました。故に、終盤のカメラを交代しながら話すシーンが生きたという言い方もできますが、あまり 戦略性を感じません。そういう認証性の曖昧さが、我が子を写すキャメラの意味すら不明瞭にしていると感じました。
一方、前者にもキャメラを持つ者が曖昧になってしまうショットがあります。もちろん原さんがマイクを向けながら泣いてしまう場面です。語弊を恐れながらも 言いますが、あの極めて戦略性と虚構性を帯びた(と観る者は感じざるをえない)ショットがあることで、「じゃあ一体セルフってなんなの?」と考えさせられ るし、逆説的に言えば、セルフドキュメンタリーは観る者がそういう事(作家の作為や映画の虚構性)にどうしても目がいってしまうジレンマが他のドキュメン タリーよりも強いのではないかな?と感じました。
また、作家自身が「映画をつくる私(制作プロセスのすべて)」と「対象(現実)と向き合う私」を分けているのか、ということを考えた時に、佐藤真さんや原 さんが言う「今の若者のセルフドキュメンタリーの傾向」があるのだろうな、と感じました。皆はそこに無自覚なのではないか、と。昔のセルフと今のセルフを 観比べて、感じたわけです。が、質疑応答やディスカッションの内容を踏まえると、前者と後者を分けるか同一視するか、という要因に対して、時代に関係なく セルフドキュメンタリー(とその作家)は自覚的であるようだったので、私の稚論はガラガラと崩れました。(笑)
また、講義中このようなことを悶々と考えている私と相反し、外的要因(主に被写体や鑑賞者)を踏まえて「じゃあこの映画の存在する意味は?」という疑問を 会場中に投げかける原さんを見て、「なんだよ、まるで俺の考察も若者的な内向きさが漂ってるじゃないか。」と思ったものでした。
極めて私的な考察、稚拙な感想を長々と申し訳ないです。
まさかあれだけ丁寧なメールを原さん及びNEWCINEMA塾の方からいただけるなど思ってもいなかったので、とても嬉しくなってしまい連絡いたしました。
そして、次回こそは緊張を乗り越え明確な質問を登壇者にぶつけたいです。