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new「CINEMA塾」2014講座

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講座レポート

講座12
2015年3月28日(土)

講座12では、かつて「メールマガジンneoneo」にて、安岡卓治と佐藤真の間で展開された「セルフドキュメンタリーの是非」について、もう一度、現在のセルフ事情とともに、再検討を試みます。当時の<セルフドキュメンタリー論争>を転載致します。講座前の予習にぜひご一読ください。



前哨戦 集団から個へ

「日本のドキュメンタリー映画のかたち」[neo 25号 2002/2/15号]

■日本のドキュメンタリー映画の変遷(2) 佐藤 真

70年代の日本のドキュメンタリーを牽引した土本典昭と小川紳介は、ともに岩波映画を経験した映画監督である。だが、二人が70年代の牽引者になったのは、岩波映画をやめて、自らの製作プロダクションによって、一つのテーマで連作を始めてからである。土本は、青林舎で『水俣—患者さんとその世界』(1971年)をはじめとする水俣シリーズの13本に及ぶ連作を始める。一方、小川は小川プロダクションで『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968年)を始めとする7本の三里塚シリーズをスタッフと共同生活を送りながら作り続ける。

公害病の被害の規模とその深刻さにおいて、日本で最悪の事件となった水俣病と、成田空港反対闘争で世界にも知られた三里塚の農民の闘いを撮った土本と小川のドキュメンタリーは、高度経済成長に湧く日本の中で、その光が届くことのない陰の部分をジッと凝視し続けてきた作品といえる。そして、そのドキュメンタリーとしての質の高さと、自主上映運動の影響力の大きさの双方において、この時期の日本ドキュメンタリーの双璧をなした。

この両巨頭によって確立された「自主制作・自主上映」のドキュメンタリー映画運動が、行政や企業のPR映画や組合や革新政党の公式主義的俗流政治映画を乗り越える自主独立のドキュメンタリーの道となっていったのである。

80年代に入ると、小川は闘争現場を離れて山形の寒村に移り住み、農業そのものを自ら体験するために、スタッフとともに小さな水田を耕し、その小宇宙に分け入って行く。一方、土本は、原発やアフガン戦争へと、関心領域を広げながらも、水俣病の闘いの最前線に立ち続ける。ところが、この時期、二人の自主上映を支え続けてきた全国各地の上映運動組織に大きな陰りが見え始める。学生運動を中心に昂揚した「政治の季節」はもはや過ぎ去り、日本中の市町村では、バブル景気の恩恵に少しでもあやかろうと、なりふりかまわぬ拝金主義が、歴史と伝統を否定する<街殺し>としてひそかに横行し始めていたのである。

土本・小川が自らの根源にしてきた集団製作と自主上映運動のサイクルは、時代とともにその陰りは否定しようもなくなる。こうした時代を背景として、個人製作を貫き、キャメラの暴力性を前面に打ち出して市民社会のヴェールを引き裂こうとして登場したのが原一男である。<アクションドキュメンタリー>を標榜する原の代表作『ゆきゆきて、神軍』(1987年)は、戦争責任を追及する元日本兵・奥崎謙三の常軌を逸した行動を追ったドキュメンタリーである。奥崎のすさまじいエネルギーと暴力は、平和ボケニッポンの虚妄を鋭く撃つ衝撃力をもち、この映画は、社会現象となるほど空前の大ヒット作となった。

集団から個へ—この大きなパラダイムシフトが、日本の隅々にまで浸透したのが80年代といえる。
小川プロという集団製作を離れて、個人映画という形で一人暮らしの老婆を撮った『草とり草紙』(福田克彦・1985年)は、三里塚闘争の現場でも既に村の共同体が失われつつあるという時代背景をもとに作られた作品である。

90年代に入ると、自主上映運動を母体にした集団製作は急速に失われていく。その中で『阿賀に生きる』(佐藤真・1992年)は、小川プロ的な共同生活を続けた最後のドキュメンタリーであるといえるであろう。その一方で、地方の自主上映運動に依存せずとも、都会の普通の映画館でドキュメンタリー映画が上映される機会も増えてきた。日本映画のベストテンの上位にドキュメンタリーが食い込むこともしばしば見られ、内容さえ面白ければ、ドキュメンタリー映画も一般の映画ファンの目に届く機会が増えてきたのである。

また90年代の特徴として、政治や社会のことよりも個人の私生活にしかドキュメンタリーのテーマを見出しにくくなった<自分探し>という共通の傾向がある。政治の季節の終焉の象徴ともいえるが、自分の在り方をキャメラをもつことで見直すところからしか、確固たる世界が見出しえないという存在の不安の表れともいえる。『につつまれて』(河瀬直美・1993年)、『妻はフィリピーナ』(寺田靖範・1994年)、『大阪ストーリー』(中田統一・1996年)、『ファーザーレス』(村石雅也・1998年)、『あんにょんキムチ』(松江哲明・1999年)、『新しい神様』(土屋豊・1999年)…などの作品群である。

これらの作品はすべて、自分の父、家族、妻、友人、民族などに焦点をあて、あくまでも一人称で語ることで、俗流政治映画のテーマ主義を超えることを目指された。確かに、こうした<自分探し>の映画は、ステレオタイプ化した若者像や在日朝鮮人像を解体する小気味よさはある。だが一方で、結局は個人の雑感に閉じてしまう弱さをも併せもっている。同じ<自分探し>の作品でも、台湾や中国の若い映像作家の作品が、徴兵制や国家の問題に正面からぶつかっているのに比べると、戦うべき相手を見出しかねている日本の若者たちの脆弱さには目を被いたくなるところもある。

オウム真理教などの新興宗教に日本の若者が惹かれていくのも、自らの根拠を探しあぐねた<存在の不安感>によるものと思われる。『A』(森達也・1998年)は、オウム真理教の広報部の若者の姿を通じて、主にメディアの在り方を批判したドキュメンタリーである。

いずれにせよ、90年代の日本のドキュメンタリーは、個人製作を中心に、ハンディなビデオキャメラによった長期撮影によって製作されてきた。そして、デジタルビデオの小型化と高性能化によって、こうした個人映画の傾向に、更に拍車がかけられるのはたしかなことである。今後の課題は、誰に、どういう視点でキャメラを向け続けるかという、ドキュメンタリー作家の主体性につきるのだと思う。(了)


上野昂志の批判 [neo28,29号] 2002/4/1・4/15 号

■「1990年代のドキュメンタリー映画について」 (その1)上野昂志

●共同性の喪失と「個」の出現

1990年代のドキュメンタリー映画のことを考えるには、やはり、80年代以降の日本社会の変化について明確にしておく必要があるだろう。たとえば佐藤真は、本欄に掲載した「日本ドキュメンタリー映画の変遷」の(2)で、70年代から80年代への変化を、「集団から個へ」というパラダイムシフトが起きたという点に見ている。このような変化が、ドキュメンタリー映画の製作のあり方に関わるのか、日本社会全体の変化としていっているのか、必ずしも明瞭でないところがある。

水俣における土本典昭や、三里塚における小川紳介のような集団製作が、80年代以降は困難になって、個人的な制作になったということと、日本社会全体が「個」へと分断されたことは、もともとは別のレベルにあることだからである。しかも、どちらが主要な契機としてあるかといえば、前者ではなく、後者である。

確かに、80年代は、日本社会が徹底して「個」へと分断・解体された時代である。それをもたらしたのは、改めていうまでもないが高度消費社会といわれる商品の細分化と、それに伴う消費者の細分化である。その意味では、高度化した資本の駆動力が、社会の隅々まで浸透して、既存のさまざまなレベルの集団や共同体を内側から解体したといっていいだろう。

そこでは三里塚のような抵抗運動も、次第に、その運動を支えた共同性を解体されざるを得なかったのである。小川プロの集団性も、もとはといえば、農民たちの抵抗運動の共同性に引き寄せられ、喚起されて始まったものである以上、それが解体した段階で維持すること自体が困難になったはずだ(彼らは、それでもそれを山形まで引っ張っていくのであるが)。

70年代までの小川紳介たちは、ある意味で幸福だったといえよう。運動によって映画が鼓舞され、また映画によって運動を鼓舞するという関係性のなかでドキュメンタリーを作ることができたからである。

それ以前にも運動はあったし、それを撮る映画もあった(たとえば原水爆禁止運動のドキュメンタリーのように)。しかし、それらと小川や土本の映画が違うのは、運動そのものと彼らの映画作りの姿勢とが、それ以前の運動並びに映画のあり方と大きく違っていたからである。簡単にいえば、運動と映画を結ぶ結節点に、場所があったという点が重要だったと思う。

つまり三里塚や水俣という場所であるが、運動はそれらの場所から発し、運動を担うものは、そこに根を下ろしていたということだ。そして映画を撮る側も、その場所に身を置くことから発して、その場所に根を下ろした人間の営みそのものを捉えようとしたのだ。

そこには、当然ながら生活の時間という問題も出てくる。それ以前の運動とそれに随伴した映画には、このような場所性がなかった。そして運動が目的とする言葉の正しさにのみ拠り所を求めたのである。ごく大雑把にいって、この場所性の問題は一つの大きなポイントだと思う。

1980年代以降の日本社会は、一方で社会化された不満や欲求を制度的に取り込むと同時に、個人の欲望を商品化することで運動を解体し、集団を個へと分解してきた。三里塚の小川プロに代表されるようなドキュメンタリー映画は、対象における共同性を失うと同時に、製作主体としての共同性を失うのである。そこから、現在に至る「個」の時代が始まるのだ。


●自分という他者への発見

1980年代以降の日本社会の特徴として、もう一ついっておかなければならないのは、場所の固有性の喪失ということである。これは、田中角栄の日本列島改造によって火をつけられ、80年代後半に加熱した土地投機を直接の原因とするが(そこで土地の商品化が極限まで進んだ)、それ以前からメディアの拡張によって生活様式が平準化するにつれて進行していたことでもある。いずれにせよ、もともとはそれぞれの地方や地域の違いを明瞭に持っていた日本社会は、場所としての固有の貌を失っていったのだ。

小川紳介の『ニッポン国古屋敷村』にしても、佐藤真の『阿賀に生きる』にしても、撮影の主なる対象が老人たちだったのは、かろうじて彼らの生の記憶のなかに、その場所の固有性が息づいていたからである。彼らがいなくなり、世代が交代すれば、それも失われてしまうだろう。「集団から個へ」というか、個人が他との関係性を失ってむき出しになるという事態は、そのような場所の固有性の喪失とも深く関わっているのだ。

そのような状況のなかで、ドキュメンタリー映画はどこへ向かうのだろうか。森達也の『A』や『A2』のように、運動なきあとの若者たちを吸引したオウム真理教のようなカルト集団と、それに対するマスコミや近所の人々の対応を主題にするというのが、一つの方向ではある。そこでは、教団とそれを排除しようとする人々との奇妙なコミュニケーションを見ることができる。それを通して、日本社会における同化と異化のねじれたあり方を読みとることができる。

90年代のドキュメンタリー映画が、対象を家庭や個人に絞り、その結果きわめて閉ざされたものになりがちななかで、森の試みは貴重なものといえよう。だが、同じような試みは、他で可能だろうか。ドキュメンタリー映画というのが、たんなる事件報道と違って、どうしても撮る側と撮られる側との間で、共犯関係とまではいかないにしろ、なんらかの了解が必要である以上、犯罪者そのものを追うわけにはいかない。

しかし、90年代において、社会的な矛盾をもっとも端的に現したのが犯罪であったとすれば、ドキュメンタリーがそれをさけているわけにもいくまい。唐突ではあるが、土本典昭の『原発切抜帖』(註)のような方法は考えられないだろうか。

あるいは、場所がその固有性を失った事態と表裏としてある「郊外化」、すなわち都市周辺のニュータウンのような平板な街そのものを主題にしたドキュメンタリー映画というのは、考えられないだろうか。これは90年代における少年犯罪が、そういう場所で集中的に起こっていることとも切り離せないが、近代家族の崩壊といわれるような事態も、郊外という場所との関連で考える必要があろう。

むろん個人を焦点化したドキュメンタリー映画が悪いというのではない。ただ、原一男が捉えた個人が、実はたんなる一人の人間ではなく、他者としての個人であったことを思えば、佐藤真もあげていたような、河瀬直美以下の少なからぬ作家の場合は、その他者性が失われていると見える点に、大いに不満がある。

「自分探し」という言葉には、言葉そのものにおいても、どうしようもないナルシシズムを感じてしまうが、まさにそういう作品ばかりが、若い世代を中心に作られているというのはどうしたことか。かりに「自分」を対象とするにしても、自分という他者を発見しなくて何が面白いのか、わたしにはわからない。


安岡の問題提起

「日本のドキュメンタリー映画のかたち」[neo042-044号] (2002/11/15~12/15)

■「私ドキュメンタリーと現代」安岡卓治

●『home』のプロセスから

10月19日から、東京・BOX東中野と大阪・シネヌーヴォーで封切られた『home』が大ヒットしている。「ひきこもり」の青年が、キャメラを持って帰郷した弟に突き動かされ、自分を取り戻し、崩壊しかけた家族が再生する物語だ。

監督の小林貴裕は26歳。98年に日本映画学校に入学し、卒業制作としてこの作品を仕上げた。彼自身のことばは、本誌30号の「旬の味覚−自作を語る」にある。彼は、同作のプロデューサーであり担任でもある私と2年間ゼミを共にした。

小林自身の中で、整理のつかない煩悶が渦巻いていた。暴君のように家を君臨する兄への激しい憤り、うつ病の母にキャメラを向けたことへの悔恨、自らが死に至る病にあることを知らない祖母の明朗さと優しさ、家族を支えるために辛苦を重ね、疲弊するあまり冷たい言辞をぶつける父、解決への道すじが見えないことへの不安。それまで背を向けていた家族の問題が一気に小林にのしかかっていた。映画によって、文字通り人生を背負い直してしまったのだ。

三人のスタッフは小型キャメラの特性を良くつかんでいた。兄にキャメラを託すプランもミーティングの話の中で出ていた。個人的な視線が生かしやすい機材であることと、弟側からの映像だけで描ききれる確証がないだけに、様々な仕掛けが要求された。ミーティングでも寡黙な小林に、すべてが託された。

そして、「奇跡」が起こった。冬の撮影で上がってきたラッシュの密度の高さは、自らが登場人物であることを明確に自覚した小林の作家性によるものだ。人間は日常的に演技を繰り返している。母親に叱責された子供でさえ、母の怒りを見定めながら泣き方をコントロールしている。青年たちは、彼女への求愛のことばを何週間も前から準備していたりもする。

見られることを知り、表情や言葉や仕草によって様々な意思伝達が出来ることを知る人間は、演技する動物なのである。その動物が撮影機という記録する鏡を前にしたとき、日常は演出されるのである。小林は、危機的局面を前にしながら、それを解決に導く手段として映画を取り込み、同時に現実を作品に取り込む巧みさを身に着けようとしていた。

私(わたくし)ドキュメンタリーへの批判は多いが、若い創り手が時代の中で葛藤し様々な表現を模索し、絵筆となる機材と格闘しながら手法を切り拓き生み出す作品であるかぎり、それは今を描く必然的な映画の「かたち」なのである。


■私ドキュメンタリーと現代(2)

●「個」へ

『home 』をはじめ、製作者自らの近親者を主観的な映像でとらえた作品群が、若い創り手たちの手によって数多く生み出されている。これらを「私小説」になぞらえて「私(わたくし)ドキュメンタリー」などと称されることがある。これらの作品が生み出された背景として、撮影機材の小型化軽便化、効率的なコンピューター編集システムの普及があることは確かだ。しかしながら、創り手の視点が他者ではなく、自己とそれをとりまく人々に向けられることの、ある種の「閉鎖性」についての検証は、けして十分になされているとはいえない。

世代的特性とも言うべきこの傾向を解こうとするとき、背景となる時代状況を解析する必要がある。また、それは、断片的なものとしてではなく、その変化を追った連続性に着目しなければならないと考える。私見ながら、この「閉鎖性」の背景を探るためには、明治維新以降の日本の近代化にともなう社会構造の変化と、社会観・人間観の変容について解析することが不可欠であるように思われる。

日本におけるドキュメンタリーの変容に関する年譜的解析は、佐藤真の論稿など、このシリーズの初期段階でなされているが、時代にともなう作家主体の内的な変化については、あまり言及されていない。作品の形態は、それぞれの作家が担う時代的課題、作家主体の背景となる世代性に依拠していると考える。単に機材システムの進化にともなう変化としてのみとらえるのではなく、その作家の時代領域、世代的位相を検証しながら、作品の在処を探るべきである。


●土本典昭の『回想川本輝夫』を巡って

99年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の特集「日本・韓国のビデオアクティビズム」で、土本典昭の『回想川本輝夫−ミナマタ井戸をほったひと』が上映された。一見、「私」作品とは縁遠く見えるこの作品にも、その「かたち」について時代的必然性を読み取ることが出来る。

この作品は、土本の代表作品群と称される「水俣」シリーズの「ヒーロー」=川本輝夫の30年にわたる闘いとその死を綴ったものである。16mmモノクロフィルムによる過去の作品からの抜粋と、土本自らの撮影による小型キャメラの映像で構成されているが、「私」映画として認められるべきものではない。土本の映画監督としての軌跡がこの作品の「かたち」を創りだしているのである。土本自らが小型キャメラの主観的画像を切り取ることによって、対象者との人間的距離を一気に短縮し、自らの一種叙情性の強い心象を作品に反映させることによって、闘いがもたらした主人公・川本輝夫の晩年の苦境を描いたのである。

70年に始まる土本の水俣をめぐるフィルモグラフィーの到達点としてこの作品を見る時、作家が時代とともに築いた作品の「かたち」を維持しながら、新たなテクノロジーを導入することによって、対象者との距離感をダイナミックに短縮し、それまでの方法では描きえなかった心象を醸し出している。川本は死をむかえる。その悲しみは、見るものの胸に深く突き刺さる。川本を通して、土本自らの内面がエモーショナルに伝わってくるのだ。

「対決」から闘う主体たる「自我」へ、「論理」から「情動」へ、その「個」をみつめるまなざしこそが、若い世代の「私」映画の源泉としてある。自我を喪失し、組織原理に恭順する「個」ならざる「個」の群れ、現代日本の様々な病理の根底がそこにある。「個」を見つめることは、けして「閉鎖性」ではない。新たなる、根源的なる闘いへの出撃拠点を構築することなのである。(つづく)


■私ドキュメンタリーと現代(3)最終回

●『ファザーレス』と自己の対象化

97年2月13日に日本映画学校の卒業制作として完成上映されたこの作品は、『ファザーレス-父なき時代』と改題されていた。主人公は、村石雅也。構成を担当した茂野祥弥は、一年余りの追加撮影の後、同作の劇場公開版を監督した。海外の映画祭からの招待が続き、マンハイム国際映画祭で、「ドキュメンタリー部門賞」と「国際批評家連盟賞」を受賞した。日本での劇場公開は、99年6月、東京渋谷のユーロスペースでのロードショーを皮切りに全国展開を果たした。

『ファザーレス-父なき時代』は、「私」ドキュメンタリーの代表的作品のひとつとして数えられるが、作品中の村石のモノローグは、すべて、茂野が書き上げた「構成台本」に沿ったものである。一人称で語られているものの、村石は「出演者」としての役割を担い、構成力のある茂野が「演出」を担当した作品である。現実を舞台としているにもかかわらず、その展開は、企画段階であらかじめ想定された範囲を逸脱していない。映画づくりにともなう作為を十分に咀嚼した作品でもあるのだ。

センチメンタルなモノローグと音楽によって、過剰に演出された予定調和的エンディングや作為が透けて見える構成には批判も多い。しかし、この作品は、「再現」としてではなく、キャメラと創り手たちの意図によって切り開かれた現実をとらえたものであることは事実だ。

村石がトラウマを乗り越えたことは事実である。驚いたのは、作品中で自傷行為を晒していた村石が、「リストカット」に話が及ぶと、その危険性を厳しく指摘するようになったことだ。『ファザーレス』の公開を通じて知り合った女性が、自傷を原因に事故死したという。その死と向き合った村石の葛藤は深い。作品の成功によって、かつての彼のような煩悶を抱える多くの若者たちから共感が寄せられ、その期待に作品づくりによって応えなければならないことを自覚しながら、新作の登場人物の死を乗り越えるために村石は苦悩している。かつて自殺願望に苛まれていた彼が、今、同じ苦しみを抱える他者に対し、映画を通じて救済の道を開くために格闘しているのである。

『home 』の主人公であり、監督・小林貴裕の兄である小林博和も今、作品とともに全国を回っている。「ひきこもり」の青年たちのための「広場」を作りたいという。自分や自分の家族たちと同じ悩みを抱えた人々に、映画や自分の体験を語ることによって解決の糸口を開いてほしいと語っている。自己閉塞的な状況の中で鬱屈しながら、曖昧に自己表出の道を模索していた青年たちが、映画づくりという他者との濃厚な共同作業を経験することによって、閉塞から抜け出し、さらに、作品に対象化された自己を見つめることによって、コミュニケーションや人間性を回復するプロセスが確かに刻まれているのである。

親世代の映画人からは、「自分探し」を主題とすることの閉塞性を批判する声は強い。しかし、これは解放への糸口であると同時に、表現の核としての、自我との対峙の原初的営為なのである。もちろん、対象者たる他者を通して自我を見つめることも可能だが、未成熟な自我を鍛え上げ、対象化するプロセスとしての作品があることを否定すべきではない。


●『ふつうの家』の背景にあるもの

「私」ドキュメンタリーと呼ばれるもの中には、それほど過酷な自己探求をともなわない、かろやかな親しみやすい作品もある。

佐藤真が映画美学校で担任したゼミの作品・長谷川多実監督『ふつうの家』は、部落解放同盟の役員である父をもつ娘の主観で綴られている。

家族の団欒で闘争論議が繰り返られていることに不満を持つ娘が、「ふつうの家」で暮らしたかったと両親に主張するストーリーだ。娘への愛情豊かな父親の日常が微笑ましい。長谷川には、映画づくりを介して親子のコミュニケーションを回復したいという意図があったという。だが、その日常風景には『ファザーレス』や『home 』にあったような厳しい断絶はみられない。むしろ夕餉の食卓の自らの場所を空席にしたままキャメラを回す娘の不在が、違和感として残る。その席に長谷川が収まることで何事もなく過ぎていったであろう日常がキャメラという異物によって揺らぐのである。

本来は団欒となる場所で、長谷川は「ふつうの家に暮らしたい」と泣きながら訴える。キャメラ抜きには要求できなかったささやかな家族への願いを言葉にし、その緊張のあまりの涙ではなかったのか。長谷川が乗り越えようとした断層は、極めて見出し難い微かなものである。しかし、これが世代間の亀裂の現在形を示しているものなのかもしれない。同家族の豊かな愛情に満たされ、十分なコミュニケーションの機会を保障されていながら、同時代を生きているはずのそれぞれの世代が、それぞれの価値観、社会観や差別観を共有できないでいる。敗戦のような大きな時代的ギャップは見出せない。一見平坦に見える高度経済成長期以降の日本の複雑な変化を背景にしているのである。

長谷川の父が経験してきたであろう被差別部落を巡る状況を例にとってみると、その変化の実相をさぐることが出来るかもしれない。幼い頃、両親の闘争に加わっていた長谷川も、団欒の話題にそれが上ることに嫌悪感を抱くようになる。闘争への動機づけとなるべき被差別の生活実感が希薄な自分と親たちとのギャップに苦しんだのであろう。「異質」なものや「突出」したものを嫌う彼女の世代的なメンタリティーは、「ふつう」というキーワードに固執する。明確な自己主張や異議申し立てを嫌い、本音をぶつけることをためらう。

部落解放のために働く親たちへの理解を深めようという姿勢は、作品の中には描かれていない。父の内面に踏み込み、家族の成り立ちを読み解こうという方向性も示されてはいない。表層に留まっていることへのもどかしさは拭えないが、父親の暖かさを伝える佳作であることに偽りはない。長谷川の狙いも、まさにそこにある。自らのダメさ加減を描きながら、父の大きさを描くことに主題が置かれていた。作品を経て、親子のコミュニケーションは一歩前進したという。作品中では一切語られないが、長谷川は、「ふつう」というキーワードが持つ差別性を理解していたのかもしれない。

同じく美学校生・清水浩之の『Go Go fanta-G』も、主人公は清水の父親である。「新しい歴史教科書を作る会」のメンバーである父と自分との世代ギャップが、コンピューター編集システムを駆使し、グラフィカルなアイデアを馴染ませたコミカルな作品である。ただ、これも、父の歴史観が何によって支えられているかについてや、作者自らの歴史観などについての描写は浅い。その作風には個性と才気が溢れており、今後の作品に大きな期待が寄せられる。

ここで気付くのは、これらふたつの作品の誕生に立会い、かれらに映画づくりの要諦を教授したはずの佐藤真が、本誌25号で「私」作品への批判的文脈を展開したことの矛盾である。この2作品の在り方を検証すれば、佐藤の批判対象とぴったり符号するのである。

2001年12月に開かれた学生たちのドキュメンタリー作品を集めた「Az Contest」の審査員講評で、日本映画学校作品の特徴として「私」ドキュメンタリーを批判した佐藤が、このイベントにエントリーしていた「Go Go fanta-G」を如何に評価したのか、もしくは批判したのか極めて興味深いところである。この矛盾の根底には、若い作家達の表現動機=制作モチベーションを支える時代状況の変化に対する理解不足がある。


●「私」ドキュメンタリーの時代

70年代以降、公教育の現場で展開している「教育反動」が、主体的自我や批判精神の芽を徹底的に摘み取ってきた。60年代、教育制度ひいては社会制度に対する根底的批判に基く学生主体の激しい異議申し立てに喘いだ権力(政・官・業)は、全共闘闘争が沈静化した70年代初頭から、急速に管理教育を徹底させる。「紛争」の起こらない学校づくりに邁進するのである。政策的には、74年に施行された人材確保法によって教員の待遇を飛躍的に高め、一方、「右翼」を自称する暴力装置を走狗として、組合運動や民主教育研究への真摯な取り組みを徹底的に攻撃するのである。この「飴」と「鞭」によって、組合活動の成立基盤を脅かし、批判力を奪い去った。さらに、「共通一次」(現・センター試験)によって入試制度の国家管理を進め、差別選別性を高めるとともに、「ミスをおかさない者=常に求められた『正解』を素早く出す者」が優位に立つ価値観を教育現場に浸透させた。

私と同世代の教育ジャーナリストで、現衆議院議員の保坂展人によれば、1点の違いで入試の可否が決められる現実から導かれる現在の教育では、正確さとスピードで課題を処理する「マシン型人間」が偏差値競争を勝ち抜き、深くじっくり考えるタイプの学生は、「自己否定」的敗北感を味わうという。組織規範に従順であること。迅速かつ正確に求められた回答を出すこと。これが公教育の人格評価基準となっているのである。保坂自身、中学校の内申書への異議申し立てによって、公教育から排除された経験を持つ。彼は、取材経過の中で、かつては生徒たちの議論で沸いた「ホームルーム」がすでに姿を消し、それに代わる「学級会」では、教師を前にした生徒たちが、規範に反するものや逸脱するものを告発する査問会もどきの光景が繰り広げられていることを目の当たりにしている。

日本映画学校で担任を勤めるようになってから15年。専修学校が学歴主義的序列の低位にあることもあって、偏差値エリートとはほとんど出会っていない。学生たちの偏差値への劣等感は深い。保坂が指摘するように、「自己否定」的敗北感を味わってきたのかもしれない。この15年の間にも学生たちの気質は変化している。明解に言えることは、発言力が衰え、論議が成熟していかない傾向が深まったことである。かつては、ディスカッションにゼミの時間の多くを割いていたが、最近では、個人指導や、作品製作の班別指導がほとんどになってしまった。「誤り」を恐れることで、発言力は確実に弱くなる。「批判することは相手を傷つける」という学生もいる。査問会もどきの学級会で身に着いてしまったのだろうか。長谷川多実も、そんな教室にいたのだろうか? 本音を押し殺したかれらの内面では、様々な思いが激しく渦巻いている。表出点を必死に求め、映画を目指したのかもしれない。

『ファザーレス-父なき時代』の村石も、正しくそんな学生だった。教育から、そして家族から疎外され、自閉に追い込まれてきた彼らのパトスは、ある種の破壊力を伴うほど深い。これが表現に向かうことをわれわれは阻んではならない。安易に家族や近親者を対象とすることは、当然、戒められるべきである。.映画によって撃つべき病理は無数にあり、その必要性はかつてないほどに切実であることは疑いもない。が、若い作家たちが表現を始動するとき、自我の奪回を図り、「個」を取り囲む題材に「内的必然性」を求め、これらを創作動機とすることを理解すべきである。

本誌29号で、佐藤真の印象記述を引用しながら、自らの作品解析や背景となる状況分析に基づく論拠を全く示さぬまま、「私」ドキュメンタリーに対しての「不満」を表す上野昂志に至っては、その「批評家」としての存在理由そのものに対して懐疑的にならざるをえない。

今、多くの若者が、キャメラを取ろうとしている。「私」ドキュメンタリーは、蹂躙されてきた彼らが、自ら獲得してきた映画の「かたち」なのだ。それはけして平易な方法ではない。自らや家族を切り裂く刃ともなるのだ。自己を見つめ、家族を問い、傷だらけになりながらこれらを作品として対象化する彼等の中から、やがてこの日本社会の矛盾を抉り出すものが立ち上がる。その萌芽が学校や職場、あらゆる組織現場に拡がっている。いま、家庭用ビデオキャメラは数千万台、映像編集可能なコンピューターが百万台以上、この日本に存在する。インターネットを介した映像配信の可能性は、無限大に広がりつつある。
その砲門が若者たちの手によって一斉に開かれる時、映画が日本を変える。
(了)


【佐藤真・反論す】 [neo51-55号] 2003/4/15-7/1

■私的ドキュメンタリー私論(1)佐藤 真

●安岡氏の「私的ドキュメンタリー」擁護論に対する私の姿勢

「NEO」誌に連載された安岡卓治氏の長大な論考は肉を切らせ骨を断つような迫力を持った出色の映画製作論であった。山本政志、松井良彦、山谷哲夫、原一男…といったその時々の時代状況の最前衛で格闘しているがゆえに、映画資本や其の業界から最も遠い極貧の際を歩まざるを得ない映画作家たちの大黒柱を独りで支え続けてきた安岡でしか語ることの出来ない自主映画の内容に深く迫る論考といえよう。

安岡はいつも決して怯むことなく監督たちをにこやかに挑発し続け、作家主体の確立を促してきた。とかく監督一人にのみスポットが当てられがちな自主映画の世界で、安岡のようなプロデューサーが時代の随走者としていつもその脇を疾走しつづけてきたことはもっと評価されてしかるべきである。

その安岡が自らのプロデュース作品での体験を通して、90年代に入って顕著な傾向として現われた「私的ドキュメンタリー」を時代の必然性であると敢然と擁護する論考を展開している。『妻はフィリピーナ』に始まって『ファザーレス』 『home』と自らプロデュースし劇場公開されて話題になった作品における作家主体の確立に至る苦闘の物語を、ともに随走したものだけが語りうる「自己表現の噴出」として展開している。

下手をすると親と子ほどの年の違いのある若き映画作家たちとも対等に渡りあおうとする安岡の論考から多くの事を教えられ、いくたびか自分の不明を恥したことだろうか。その安岡の舌鋒は、最近とみに私的ドキュメンタリーへの批判的言辞を弄する機会の多い私に対して鋭い批判となって跳ね返ってくるのは論理的必然といえる。

この機会に、私なりの私的ドキュメンタリー論をまとめておくことは、単に安岡への反論としてだけでなく、「NEO」誌上で更なる論争の火種として決して無意味ではないと思われる。そのため、安岡のような長大な論考になることを怯えずに愚見をここに展開していきたい。


●「私的ドキュメンタリー」に対する評価の変容

何も私は最初から私的ドキュメンタリーの「ある傾向」に対して批判的だったわけではない。むしろ90年代初頭の黎明期には積極的に擁護する側に組していたつもりである。公式の発言としては、93年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の日本ドキュメンタリーをめぐるシンポジウムの席上で、先行世代の政治主義を斬る橋頭保として、私性は大事な根拠になりうるといった論陣を私は張っている。

このシンポジウムは松本俊夫、黒木和雄と私との三人による対談で議論の流れがドキュメンタリー世代論の様な様相を呈してきたため、私より若手のドキュメンタリストに期待される新しい傾向として、プライベートな世界への追求を紹介したのである。

それは社会や政治の問題を従来の政治言語の回路で問題化するのではなく、私的小宇宙に徹する事で硬直化した「政治問題」のあり方を溶解させようとする新しい世代の登場と私には映っていた。つまりある社会問題をとりあげるに際して、正攻法で責める限り陥りやすい政治主義の陥穽をすり抜ける戦術として私的世界を媒介に血の通う生身の「問題」として肉体化しようとするアプローチといえる。

そのとき私の念頭にあった次世代の監督としては『妻はフィリピーナ』をまだ完成途上にあった寺田靖範であった。ひとまず日本映画学校の卒業制作作品として完成し、後に完成した映画では前半としてそのまま新たな映画に組み込まれる事になった短編を見て、その大胆でユニークなアプローチに新しいドキュメンタリーの可能性をしかと感じていたからである。とかく悲惨な現実ばかりピックアップして並べ立てるか、フェミニズム的視点で一刀両断するかの二つの視野しか眺められる事しかなかったフィリピン女性の「ジャパゆきさん問題」を寺田は監督自らが当のジャパゆきさんと結婚してしまう事を通して全く新しい切り口を提示しようとしていた。

翌年の94年に完成した『妻はフィリピーナ』は期待に違わぬ素晴らしい出来ばえの作品であった。何より洋子というひと粒種を得て自信をつけたテレサが、家庭生活においても完全に主導権を握って、監督やスタッフを翻弄しつづけている様子が実に小気味がよい。演技とも本物のベットシーンともつかぬ境界線上を揺れるラストシーンに寺田の映画作家としての成熟と確信を見て我が事の様に喝采したのをまるで昨日の事のように覚えている。

したがって、90年代後半から顕著な傾向を形作る私的ドキュメンタリーの一連の作品群の登場を色眼鏡で見たり、端から粗さがしを始めたりしなくてはいけない理由は私の側には微塵もない。むしろ、寺田の場合と同様に、硬直した政治問題を解体するアプローチの一つのあり方として好意的に受けとめてきたつもりだ。

しかし、劇場公開作品を中心に私的ドキュメンタリーの潮流を見続けているうちにいくつかの疑問が頭をもたげてきた。結論だけ先に述べると、なぜあえてプライベートな世界をとりあげるかについての作家の自覚のあり方の変容といえる。

つまり、敢えて私的小宇宙にカメラを据えることへの戦術や戦略がどうしても感じられない作品が多くなってきたのである。それとともに、私的世界に深く切り込んだデビュー作で国内外に高い評価を受けたものの、次が続かなくなるという共通の傾向のことも気になり始めてきた。

この私的ドキュメンタリーの傾斜には、確かにはっきりとした時代の必然性がある。しかもこの傾向は日本に限った事ではなく、アジアにおいても欧米の映画作家の間でも顕著な一大潮流を形作っている。もはや何人といえどもその流れの勢いを押しとどめられないほど、ドキュメンタリーは私性へ私性へと急速に傾斜し始めてきた。

こうした時代の趨勢を改めて歴史を遡って考察の俎上に載せることは、論点を整理する意味で決して無駄ではないと思われる。そこで、日本のドキュメンタリー界における私的映画の必然性について私なりのパースぺクティブをここに簡略にまとめてみたい。(つづく)

■私的ドキュメンタリー私論(2)

●集団から個への予兆

集団から個へといった大きな潮流の変化の兆しは、1970年代にその萌芽を見ることができる。この70年代とは、土本典昭、小川紳介の両監督が水俣と三里塚を拠点に自主製作・自主上映のパワフルなサイクルを切り結びながら最も充実した連作を続けていた時期にあたる。60年代に大島渚が提起とした「長期取材」と「対象への愛」をスタッフ総和の力によって実現するという集団製作の黄金時代であるのだ。

しかし、その集団製作のただ中で、個への傾斜は既に始まっていた。その変化の兆しを鈴木一誌は「画面の誕生」(みすず書房)の土本典昭論の中で撮影監督の大津幸四郎の発言を引きながら「レンズの向こうで『存在論』が転換した」端緒が70年代にあった、と述べている。

大津自身の言葉によると、「こっちが働きかけていかないとモノも浮かび上がってこない時代になってきた」となる。つまり、真実は必ずどこかに存在するのだから、そこに向かって真摯に働きかけてさえいれば必ず真実の方から語りかけてくれるといった客観主義的発想がどうしても通用しなくなってきたというのである。

それは言い換えれば、こちら側のものの見方によって真実はいくつもあるという相対主義、主観主義の時代の到来を意味する。大津はその変容のはっきりした兆しが'74-'75年にあったと述べている。この言葉は水俣病患者の闘いのピークを撮った『水俣一揆』(1973年)と『不知火海』(1975年)『医学としての水俣病-三部作』(1975年)との間に厳然と横たわる映画的スタンスの段差をカメラのルーペを通して直に接しながら体感した発言として受けとめる必要がある。

またこの当時小川プロダクションの懐刃として助監督軍団の先頭に立っていた福田克彦は、のちに遺稿としてまとめられた「三里塚アンドソイル」(平原社)の中で、成田空港開港前後の三里塚空港反対闘争のピーク時に、既に農村共同体の崩壊の兆しははっきりと読み取れていたと述べている。それを福田は農業の近代化によって農作業を個別化し、最早"結(ゆい)"などの結束による共同作業を必要としなくなった点にあったと指摘している。

つまり青林舎を拠点に水俣で連作を続ける土本典昭のスタッフ集団においても、三里塚の小川プロダクションの共同生活の現場においても、「集団から個へ」の変化の予兆はヒタヒタとその水面下を被い始めていたのだ。土本が門外漢の一映画人として敢えて医学の世界に迫ろうとした『医学としての水俣病−三部作』も、'75年から本格化した小川プロダクションの山形への集団移住も、この大きな時代の潮流の変化への一つの解答であったと言えなくもない。


●『極私的エロス』の先駆性

この時期に、時代に先駆けて私性への傾斜高らかに予見する重要なドキュメンタリーが生まれている。それは原一男の『極私的エロス・恋歌1974』(1974年)である。
原一男の元妻・武田美由紀を原の新しい恋人・小林佐智子とともに追うというこの映画は、男女の三角関係という痴話に徹底して惑溺することでかえって光々しいまでのピュアな男女関係を描くことに成功した稀代の私的ドキュメンタリーである。

この作品が小川紳介の三里塚時代の最高傑作『辺田部落』が作られた1973年と土本典昭の水俣シリーズの最高峰をなす『不知火海』『医学としての水俣病−三部作』が作られた1975年の間に位置する1974年に作られたことの先見性はもっと強調されてしかるべきであろう。共同体幻想を伴った政治の季節の残り火がまだチロチロと燃えつづける70年代において、その水面下で密かに進行していた「集団から個へ」の大きな潮流の変容を、原一男は自らの女性関係の私性を徹底して見つめ透すことでたった独りでとらえきってしまったといえるからだ。

少なくとも『極私的エロス・恋歌1974』までのドキュメンタリーは、常に撮影対象と撮影スタッフは厳密に区分けすることが出来た。大島渚が60年代に二大テーゼ化した「長期取材・対象への愛」にしても、被写体にとっては単に他所者や闖入者でしかない撮影スタッフが撮影対象といかに親密な信頼関係を築くかということに対するアプローチの態度を問題にしていたに過ぎない。

ところが原一男のキャメラは撮影対象として「元妻」という私事を主役にしたばかりでなく、キャメラを廻す原一男自身にも共同製作者として録音機を廻す「新しい恋人」小林佐智子にもキャメラを振り向けていく。いわばこれまでのドキュメンタリーでは撮る側と撮られる側の間に厳然とあったはずのイマジナリーラインを、原のカメラは暴力的に侵犯を始めたのである。その結果「元妻」や「新しい恋人」という呼称自体がいかに制度的な夫婦関係の桎梏にからめとられているかを痛感させられるようなビビットな男女関係を描くことに成功した。

これは、撮る側-撮られる側と固定化されていたキャメラの視点を一気に逆転させるコペルニクス的転回ともいえる。高価な機材とべらぼうに高い16ミリフィルムの捻出を迫られるこの時代の自主映画において、私性を根拠に撮る側-撮られる側の関係を反転させるような映画製作の試みがいかに無謀な企てであったのかを想起してほしい。この時代までの映画は常に何らかの意義や大義にしっかりと縛られていたのだ。


●私的ドキュメンタリーへの傾斜

70年代に水面下で秘かに進行していた「集団から個へ」の変容は、80年代に入るとはっきり水面上に浮上を始めてきた。それは、徐々にではあるが撮影対象やテーマのとりあげ方が、社会問題から私的小宇宙の方へとシフトを始めたのがはっきりと読み取れるからである。それとともに70年代後半から顕著になった8ミリフィルムによる個人映画が、その技術的進歩と蓄積の上に立って自主映画界においてはっきりとした一大潮流を形作るようになった。

77年から始まったぴあフィルムフェスティバルは、こうした8ミリ個人映画作家の一大登竜門となった。この個人映画は資金的にも技術的にも文字通りたった独りで映画を完成させることができるシステムを確立された。独りで映画を作る限り、これまでのように大義や正義に足をすくわれる必要はない。畢竟、こうした個人映画がそのテーマやスタイルにおいて私的小宇宙をとりあげる方向に向かうことは最早論を待たないであろう。

80年代中盤に登場した8ミリビデオは、更にそのプライベートな世界を捕える親和力を倍化させるのに大いに寄与した。「誰でも映せます」の8ミリフィルムの時代から「誰もが必ず映している」8ミリビデオへと映像をめぐる技術的環境は大きな変化を遂げ始めたのである。

70年代が映画製作サイドにおいて集団製作から個人映画への変容が始まった時代とすると80年代は更にそのテーマや対象に於いて社会問題から私的小宇宙への変容が始まった時代といえる。8ミリ映画の隆盛や8ミリビデオの登場は、その時代思潮に拍車をかける。更に政治の季節の終息は、天下国家を語る事に過剰な嫌悪感を示し、他者との繋がりすら厭うようなオタク文化を形作るようになった。

若者は皆それぞれの蛸壺に隠れひそみ、団塊の世代はかつての思い出に浸るだけの山中の山芋掘りばかりを続けている。世界に目を転じても、ベルリンの壁が崩れソ連邦が崩壊し、イデオロギーの時代は急速な終焉を見せる。日本においても、次第に明らかになった労働運動の反時代性は、とうとう社会党そのものの解体となって現象する。挙句の果てに元社会党のダラ幹あがりの国会議員は、自民党の旧田中派との合従連合で必死に生き残り策を模索し、民主党なるヌエ的対抗政党を生み出す始末である。

こうした状況下においては、政治的テーマを語ること自体がひどくアナクロな反時代的行為と受け止められかねない。社会や政治についてではなく最早私について語るしかない。こうして90年代の私的ドキュメンタリーの社会的、政治的、技術的素地は形作られた。

劇場公開され話題になった私的ドキュメンタリーをここで年代順に列記しておきたい。『家族写真』手塚義治(1989年)、『につつまれて』河瀬直美(1993年)、『妻はフィリピーナ』寺田靖範(1994年)、『僕は怒れる黄色'94・虹のアルバム』キッドラッド・タヒミック(1994年)、『百代の過客』原将人(1995年)、『大阪ストーリー』中田統一(1996年)、『あんにょんキムチ』松江哲朗(1999年)、『ファザーレス』村石雅也・茂野良弥(1999年)、『home』小林貴裕(2002年)。

もちろんこの中には、原一男と同時代の70年代に既に私的小宇宙への傾斜を見せていた鈴木志郎康の『日没の印象』(1976年)をはじめとする実験映画作家の作品群や平野勝之をはじめとするアダルトビデオ界の作品群は含まれていない。あくまでも劇場公開された作品だけを列挙しただけである。しかし、ドキュメンタリー映画が普通の映画館で劇場公開されることが考えられなかった80年代から顧みると、これだけの私的ドキュメンタリーが何らかの商業的価値があると判断されて劇場公開された事自体に隔世の感がある。

■私的ドキュメンタリー私論(3)

●私的ドキュメンタリーが主流を占めてきた

山形国際ドキュメンタリー映画祭の上映プログラムを見ても、90年代中盤からアジアの映画作家を中心に私的世界を取りあげた作品が急速に増えてくる。この背景には、デジタルビデオの普及とパソコンによるノンリニア編集機材の低廉化が確実に寄与している。最早、独りで貯めた小銭を元資に、たったひとりで撮って、ノンリニアで編集し、劇場公開用のカンパケを作ることまで可能な時代になったのである。

劇場公開作品を中心に私的ドキュメンタリーをザッと眺めるだけですぐに気づかされることは、90年代中盤を境に、その製作状況ががらりと様変わりしていることだ。94年の『妻はフィリピーナ』 『僕は怒れる黄色'94・虹のアルバム』までは、すべての作品がフィルム素材によって撮られた16ミリ映画であった。手塚義治の『家族写真』はイギリスの映画学校で学ぶ手塚がきちんとした予算書に基づく本格的16ミリドキュメンタリーとして、イギリス人の妻を伴っての日本への一時帰国の顛末を撮った作品であった。

また、河瀬直美の『につつまれて』は8ミリ映画の個人映画として撮られ、話題を集めるようになって16ミリにブローアップされた作品である。タヒミックの『僕は怒れる黄色'94・虹のアルバム』は、20年来16ミリフィルムで撮りためられた家族のアルバムの集大成の作品だし、寺田の『妻はフィリピーナ』も最初から16ミリの映画として企画・製作されている。

ところが、95年以降は、圧倒的にデジタルビデオ作品が多くなる。特に監督自らの長いトラウマとなっていた郷里の家族の問題に揺れる手持ちキャメラで肉迫した『ファザーレス』と『home』は、デジタルビデオの存在ぬきには成立しえない作品である。いくら私的世界をとりあげるといっても、16ミリキャメラとデジタルハンディカムでは、それを受けとめる家族の側に自ずと決定的な違いが生じる。

山形国際ドキュメンタリー映画祭でも95年を境にアジアの若年の映画作家を中心に圧倒的に私的ドキュメンタリーが多くなってきた。郷里の田舎を捨てて大都会に憧れる友人たち、不法滞在や徴兵制の問題、自分のセクシャリティーやトラウマ…、こうした自らの身体的痛みに向って、アジアの若い映像作家たちは手にしたばかりのデジタルビデオを携えて猛然と突進をはじめたのだ。

こうしたアジアの映像作家の私的ドキュメンタリーの特徴のひとつとして、私事を見つめていくことを通じて必ず何らかの形で国家や社会の問題と向きあっている点にある。韓国、台湾の映像作家の作品に特に顕著に見られたことだが、同じ若者どうしの等身大のプライベートな世界を描いても、どうして徴兵制の問題と向きあわざるをえない。国家権力による一定期間の兵役の強制は、一担それを拒否すれば途端に不法滞在者に転落せざるをえない無情な亀裂を生み出しているのだ。その点が、次第に自分捜しの傾向を見せはじめていた日本の私的ドキュメンタリーと好対照を見せていた。

政治の空洞化、若者文化の自閉的傾向、デジタルビデオの急激な普及、ノンリニア編集浸透…こうした彼我の諸条件が一気に揃った90年代中盤に私的ドキュメンタリーは一種の社会現象のような隆盛を見せる。その勢いはテレビジャーナリズムをも突き動かしいくつかの特集番組も組まれた。


●『妻はフィリピーナ』に見る私性

その中に、寺田靖範と原一男が対談したNHK「ETV特集」の番組があった。映画評論家山根貞男の司会によって、「私的ドキュメンタリーの世界」と題する対談番組は、NHKとしては珍らしい、実に時宜にかなうテレビジャーナリズムの仕事であったといえよう。二度に渡ってくり広げられた対談の後半は、原将人、キドラット・タヒミックに引き継がれていくのだが、ここでは、第一夜の対談の中で、原一男がこだわっていたある言葉について考察を加えていきたい。
原がこだわって執拗に寺田に問い糾していたのは、『妻はフィリピーナ』の前半部分のしめくくりで寺田本人が不用意に語った「ひと並みの幸せ」という言葉だった。

スナックで出会ったフィリピン人女性テレサとの結婚を父親の猛反対にもめげず妹や母親のサポートもあって無事にマニラで挙式を上げた寺田夫妻は、やがて一粒種の女の子を授かる。スッタモンダの挙句にどうにかマニラの産院で無事に出産を終えたテレサのシークエンスで、その子の名前を「洋子マルチーナ」と名づけたとその喜びを語った後で、「これで私達もひと並みの幸せを手に入れることが出来ました」と寺田は語る。この「ひと並みの幸せ」に原一男がカチンときたのである。

少なくとも原一男の場合、この「ひと並みの幸せ」を拒否するところから、私的世界にキャメラを向けようとしてきたはずである。原はそれを「家族帝国主義」に対する反旗であったと語っている。原の連れ合いであった武田美由紀が、乳飲み子を背負って原の元を出奔したのも、女性だけのコミューンを創出したり、沖縄に渡って黒人米兵と肉体的関係をもったりしたのも、原との関係が「ひと並みの夫婦」になることを拒否しようとしたためといえる。

そうした熾烈な男女間の確執を通して私的世界にキャメラを振り向けてきた原にとってみれば、寺田のこの不用意な言葉は、「お前は本当にそんなひと並みの幸せを信じているのか」と問い糾してみたくなるのは当然のことである。それに対する寺田の返答は、蛇ににらまれた蛙のように硬直したまま一向に要領を得ない話だった。

私は寺田は本当に「ひと並みの幸せ」を信じているのだと思う。それは原一男の世代とは決定的に違う90年代の新しい家族のあり方なのだ。原にとってみれば否定すべき制度でしかなかった家族が寺田にとってみれば建設し再生すべき人間どうしの絆となる。パロディとしてなら分かるけれど本気だとするとかなり問題だと原一男が執拗にこだわっていた。だが私はこの「ひと並みの夫婦」という言葉には、寺田の無意識から出てしまった本音が現われていると思っている。

寺田はこの言葉を発した時、自己戯画化しようとした意図はあまりなかったに違いない。しかし、この「ひと並みの幸せ」という言葉が不用意に発せられた本音だとしても、映画『妻はフィリピーナ』の作品全体の流れの中で、充分に皮肉の利いたパロディとして私には充分に笑えるものだった。そこに私がこの作品を評価するポイントがある。

つまり、ジャパゆきさんの問題を監督自らの結婚生活という私性を通じて描こうという全体戦略の中で、監督本人の無自覚な本音ですら、とても戦術的意図をもったパロディとして受けとめることが出来るということだ。虚実の境に見事に揺れる煎餅布団上の長いベッドシーンをラストにもっていった編集者の慧眼にこの作品のしたたかな戦略性は見事に反映されている。

ただ寺田本人が自分の作品の真の力に対して無自覚であったことは、彼のその後の映画作家としての人生の中で禍根を残す事になる。映画作家に限らずあらゆる作家はその処女作にいい意味でも悪い意味でも縛られるものだ。監督協会新人賞をはじめ国内外で高い評価を得た寺田であったが、それにも関わらず次回作がなかなか切り拓けずに苦しい時期をむかえることになる。

■私的ドキュメンタリー私論(4)

●『あんにょんキムチ』に見る私性

私が日本の私的ドキュメンタリーのある傾向についてはっきりと批判的見解をもつようになったのは99年の第6回山形国際ドキュメンタリー映画祭においてであった。この年の山形も、アジアの映像作家を中心に私的ドキュメンタリーの隆盛はとどまるところを知らない勢いであったが、日本からも私的ドキュメンタリーの話題作『あんにょんキムチ』(松江哲明)が出品されていた。

在日三世の韓国人である松江監督が、自らのルーツを辿る旅の果てで祖父母の生まれ故郷である韓国の地を訪ねるというドキュメンタリーで、そのウイットとペーソスに富んだ語り口は会場を大いに湧かせ上映会場は毎日超満員の盛況ぶりを見せていた。
私は超満員の上映会場で、怒濤のように揺れる観客席のどよめきの中でこの作品を見たのだが、見終わった後にとても嫌な感じがした。

それに対して、日頃から比較的批判的に思ってきたビデオアクト集団の中から、右翼パンクロックグループをとりあげるという極めて際物狙いの作品として『新しい神様』(土屋豊)の様な秀作が出現し、自分の不明を恥じるとともに目から鱗が落ちる思いがした。この二本の作品に対する私見を展開する中で、私的ドキュメンタリーのある身振りに対する愚見を述べていきたい。

『あんにょんキムチ』は在日韓国人三世の等身大の人間像を実にユーモラスに描いた快作として、海外の映画祭でも評価を受け、劇場公開でも大成功を収めた作品である。山形映画祭の会場でも、誰かれかまわず自作映画の宣伝チラシをまき続ける松江監督のエネルギッシュな人柄には非常に好感を持った。キムチのカラさが苦手で、朝鮮文化の一切から隔絶した松江が、親類縁者を訪ね歩くうちに自分の血の中を流れる朝鮮人としてのルーツに目覚めるという物語は、たしかに在日三世・四世の新世代の到来を見事に描いていて、その点では良く出来ている作品である。

自らの家族や民族の歴史に対して全く無知であった松江が、親類縁者の叱責や教えを受けるところが実に面白く観客の笑いを誘うのだが、その監督の無自覚ぶりが私には最後まで気になって仕方がなかった。松江自身が本当に朝鮮人としての自らの歴史に対して無自覚なまま育ったことは三世・四世として生まれながらに日本文化の中にドップリ漬って生きてこざるを得なかった世代にとって仕方ないことであろう。だが、その無自覚さが、映画作品にとって核となるテーマであることに対して、監督の側からの戦略性・戦術性が全く感じられないのである。

例えば寺田の『妻はフィリピーナ』の場合、主導権を完全に妻に奪われたなさけない日本人夫として、寺田は観客の笑いを大いに買っていたが、少なくとも寺田の場合、こうした自らのなさけない姿を映画に晒すことが映画の一つの核になりえることに対する戦略的自覚は感じられた。ところが『あんにょんキムチ』には、この戦略性が最後まで感じられないのである。寺田の場合はバカな振りを演じている自覚が多少なりともあった。

それに対して松江の場合は本当にただの無知でしかなかったのである。ただその松江自身の無知は、彼自身の責任というより、在日三世・四世の置かれた特殊な条件ゆえの事で、松江にはもとより罪はない。また自らの歴史に全く無自覚で生きざるをえない在日三世・四世の問題こそ、今まであまり語られなかった今日的なテーマでありそこに映画の新しさはある。

しかし裏返してみれば、『あんにょんキムチ』の場合、松江自身が在日韓国人の家族に育ってなかったとしたら、全く見るに耐えない自分探しの物語に堕したに違いない。つまり、この映画はニューウェーブのドキュメンタリーを装いながらも、テーマ主義に足をとられた旧来の古いタイプの映画を模倣したものでしかないのである。


●『新しい神様』に見る私性

デジタルビデオの普及とインターネットの進展は、これまで国家・産業資本に独占されたテレビニュースや情報発信を民衆の側にとり戻す絶好の機会となったことは確かである。あらゆる表現が憲法上では完全に自由に与えられているはずの自由主義社会のメディアが、実に様々な目に見えない管理によってがんじがらめになっている現況に対し、オールタナティブなニュースソースの発信を目指すビデオアクトグループの世界的進展はたしかに大切な運動であるとは思う。

しかしビデオアクトグループの多くの作品が、伝えるべきメッセージの純度をあげようとするあまり、いささか旧態依然とした教条主義な作品が多いのにはかねてから批判的な見解を持ってきた。つまり見る前に既に言いたいことが分かってしまうようなテーマ主義的な作品があまりに多いのだ。政治集会や討論会の付属物としては、たしかに有効なメディアだとしても、それでは戦後民主主義的左翼プロパガンダ映画の焼き直しに過ぎないではないか。そのため、私はこうしたビデオアクトグループの活動とは常に一線を画してきた。

日本のビデオアクトグループの若きエースとしての土屋豊の存在はその手の運動に対して寡聞を決め込んでいた私の耳にも充分に届いてきた。その土屋が、靖国問題の延長線上に、右翼パンクロックグループをとり上げたというのである。正直言って『新しい神様』を見るまでは、私の脳裏には、随分と政治的な際物狙いの作品で嫌だなといった偏見が渦まいていた。しかし、見終わった後は久しぶりに溜飲を下げたような爽快感が残った。私が最もこの作品において感心したのは、デジタルビデオが得意とするプライベート性を作品に取り込むにあたって明確な戦略が感じられた点である。

「天皇万歳」を連呼するようなパンクロッカーグループの女性ボーカリスト雨宮処凛と土屋豊はお互いに全く正反対の思想の持ち主同志でありながら次第に心惹かれていくのだが、その内に秘めた本心の吐露が、土屋が雨宮に話したデジタルビデオを通して描かれる。極右と極左がグルリと廻って同じ地点に立っていることをお互い発見することは良くあることではあるが、この右翼パンクロッカーたちも、世界最後の共産主義国家の砦の一つ、北朝鮮への視察旅行に出かけるのであるが、この旅で雨宮が撮ったプライベート映像が実に戦術的に有効に作品に生かされている。

雨宮のデジタルカメラは、旧日本赤軍議長として、今だにひとり山中で山芋掘りを続ける塩見某なる中年男の驚くべき反時代性や右翼活動家たちの無内容ぶりを見事に晒け出してしまうのだ。デジタルビデオを廻した雨宮本人には、そうした意図は毛唐ないであろう。そうした雨宮のプライベートビデオを作品の中に組み込んだ土屋の狡知によってそうした読み方が可能になった訳だ。パンクロッカーの雨宮たちが、大上段に政治問題を語れば語るほど、デジタルビデオに映し出される彼らの私性は、彼らの生の存在の不安と孤独を描き出してしまう。そこに、デジタルビデオの私性をとらえる新しい視点が提示されていると私には映った訳である。


●私性を捉えるための戦略と戦術

8ミリや16ミリフィルムに比べ、デジタルビデオはその機動性と長時間録画によって、より親密な私的小宇宙を映し出すことを可能にしたことは言うまでもない。しかしその機材環境の進展によって、よりリアルなプライベートの世界が映し出せるようになったのかというと、事態はそう単純ではない。いかに長時間本当の私性を映し出すことが可能になったとしても、それは映画を編集する際の編集素材のひとつでしかない。

むしろハリウッド映画の多くが、回想シーンや幼年期の記憶を語るものとして、不安定な手持ちキャメラによる不鮮明なビデオ映像を数多くとり入れるようになったように、編集素材としては「本当にプライベートな世界」も私性を語るひとつの身振りでしかない。いかに生身の私事がそこに映し出されていようと、赤の他人である観客にその親密性を伝えるためには常に何らかの映画的戦略が必要とされる。

ところが、映し出されているものが、すべて監督本人の私事である場合、なかなかその「本当の私性」を切り刻む距離がとりにくい。つまり、私的ドキュメンタリーの場合、監督は自らの本当の私事を映し出した編集素材に対し、あたかも赤の他人のような第三者の目で眺めなければ距離を取り違えるというアポリアに向きあわざるをえないのだ。そのためには、かなり高度な映画的戦略と編集上の戦術が必要とされるのは言うまでもない。私的小宇宙とは、本当の私性(フィクションとしての私性でもかまわない)を映し出した映像を再編成してひとつの独立した世界が作り上げられた時、その映画の上でだけ成立するフィクショナルな世界のことを指す言葉なのだ。

  

極言すれば、私事も私生活も映像作家にとってはひとつの立派なフィクションである。そして、その作品の力は、そうした私性の孕む本質的なフィクション性をいかに自覚して戦術、戦略を練り上げるかにかかっている。私が、日本の私的ドキュメンタリーに共通する自分探しのある身振りに一抹の不安を懐いてきたのは、この戦略、戦術に対する自覚の欠如の問題と置きかえてもいい。自ら撮った素材の力を見極める目をもたない限り、あらゆる映画作家は出立することがかなわない。

しかし、私的ドキュメンタリーの場合、自らの素材の力を見極めることなしに提出してしまった作品が、その私事の特殊性や先見性によって作り手である監督の背丈をはるかに越えた高い評価を受けてしまうことがある。

■私的ドキュメンタリー私論(5)

●自らの作品を見極める力

デビュー作での世評の高さが映画作家にとって幸福なことなのか不幸の始まりなのか実は分からないところである。第1作目でメガヒットを当ててしまったゆえに2作目が続かなくなることはポップミュージック界には良くあることだが、私的ドキュメンタリーの世界でもそれに似た傾向を呈し始めたことが老婆心ながら気になりはじめてきた。

私的ドキュメンタリーでデビューした映画作家が自らの作品の真の力を見極める事が出来ずにいると、「あみんこく」危険性の最も近くにいることを痛感させられる機会があった。それは、『妻はフィリピーナ』の寺田靖範とその後の彼の映画作家としての歩みを通して感じた事でもあった。


●寺田靖範の場合

最も将来を嘱望され、90年代中盤で最も好位置をキープし続けた寺田にしてもその後第二作目が撮れずに苦境に陥っていた。その寺田から、『妻はフィリピーナ』のその後とも言うべき企画を、テレビ東京の「ドキュメンタリー人間劇場」に通す手助けを依頼された。

寺田が持ち込んだ企画とは、『妻はフィリピーナ』の中でユニークなバイプレーヤーとして味のあるキャラクターで印象的な矢部夫婦のその後を追うものであった。映画完成後に不幸にも矢部は病に倒れ、幼児をかかえてフィリピン人妻が残された。寺田たちはそうしたフィリピン人未亡人の姿を追おうというもので、寺田の私生活からすこし離れた周縁に目を向けようとした好企画であると私は思った。

ところが肝心の編集の段階になって、全然構成らしい構成が上ってこないのである。遠見の見物を決め込んでいたはずの私も、鬼軍曹のように陣頭指揮をとらざるを得ないはめになる。しかし、いくら叱咤激励しても何の成果らしい成果が上ってこない。そのうち私の頭の中にまさかと思えるような疑問が頭をもたげてきた。—ひょっとしたら寺田は、自らの作品作りにおいて編集の修羅場を乗り越えた経験がないのではないか—と。

テレビの仕事はどうしても最後の大詰めで時間に追いまくられる。放映日までのこり僅かになった段階で、仕方なしに私が編集の全権を握って再構成するはめになった。作品の質を落とすことは出来ないという大義名分の下に若い助監督の監督デビューの芽を悉く摘んできた小川紳介のようなことを私もこのテレビ製作の現場でしてしまったのである。その結果は、出来上がった作品『レジ—の太腕繁盛記』が無残なものであったばかりでなく、その後の寺田との人間関係において大きな禍根が残ってしまった。

しかし、寺田と直にスタッフとしてやりあった体験は、私的ドキュメンタリーのある身振りに対する大いなる疑問として澱のように私の体の中に蓄っていた。それは、私的ドキュメンタリーの処女作で世間の高い評価を受けてしまうことは、映画の力を読みきれずに監督に押し上げられてしまうような不幸な事なのではないかという疑問である。嫌な言葉で言えば、彼らはあみんこく可能性の最も近いところに位置しているのだ。


●村石雅也の『ファザーレス』の場合

『ファザーレス』に対する私の疑問は、監督・編集の問題にあった。主人公の村石の人柄を私は良く知っていたためにかえって思いは複雑であったが、この映画の監督は一体誰で、誰がこの作品の責任を引き受けられるかという問題である。安岡の論文を読むと、不安定な村石を影になり日向になって支えてきた茂野の苦渋が実によく描かれていて自分の不明を恥じるばかりであったが、それでも自らの家族を映画に晒した村石にしかこの作品の責任はとれないはずだという私の見解には変わりはない。

この作品は切れば血がにじむような村石自身の不安定な精神状態がそのまま画面に現われているのが身上であるが、その素材の力を咀嚼しきる主体を確立出来ぬまま、その素材の力だけで映画がひとり歩きを始めてしまった様な作品なのだと思う。赤の他人の家を撮るのなら、「そうして延々とデジタルビデオで廻しつづけるあなたは一体誰なのか」と、映画の主体は必ず問い質されるはずである。ところが、私事の場合は、そうした詰問なしに撮影が続けられてしまう事が往々にしてある。

しかも、その撮り終えた映像を、その真の力とダメなところを見極めることなしに、生のまま世間に提示して圧倒的世評を受けてしまう事もまた往々にしてあるのだ。それを私はここで私的ドキュメンタリーの素材主義、あるいは自然主義的傾向と仮に呼んでおこう。私事をとらえた映像に対して戦略戦術が欠如しているというよりもむしろ、へたな戦略戦術ぬきに生のままその映像素材を提示した方がよっぽど迫力がある素材が撮れてしまったということでもある。少なくとも村石が撮り続けた私事には、それだけの切れば血の流れるような圧倒的迫力があった。

だが、その映像素材の本当の力を見極めて責任を持って世間に提示できるのもまた、撮った張本人である村石だけであるのだ。このことをはずしてしまっては作家の主体はいつまでも確立できない。監督の主体の確立を待たずに映像素材が一人歩きしてしまうことは、まさしく作り手を置いてきぼりにする様な不幸な状態を生み出すだけだ。なぜなら同じ緊張感と切迫感を持って二度と自らの私事を撮る事は不可能であるからだ。

はじめてのことだからこそ家族もその胸襟を開いたのだ。だが、村石にしても茂野にしても次があるではないか。第1作が素材の生の力だけで押し切ってしまったとしたら、第2作目では当然生の素材の力だけでは通用しないので高度な戦略、戦術が要求される。そこから本当の出立を計ればいいのである。


●小林貴裕の『home』

小林貴裕の『home』も、引き籠りの兄をデジタルビデオで撮った生の素材の迫力で押し切った様な自然主義的傾向の作品と言えるが、作家主体の確立は非常に濃厚に感じることのできる作品であった。それとともに小林の手にしたビデオカメラが、母親とも引き篭り続ける兄とも唯一の対話の絆となっているところに作り手の何がしかの戦略性を感じる事が出来て好感を持った。

特に、外界のすべてを拒否していた小林の兄が、弟から託されたビデオカメラを前に自らの情けなさを慨嘆するシーンは、はじめて引き籠らざるを得ない若者の真情が伺えた秀逸なシーンであるだけでなく、デジタルビデオを対話の道具として使おうとする監督のしたたかな戦略も感じられる。しかしこの小林にしても、真に問われるのは、このデビュー作ではなく第2作目であることには変わりはない。


■私的ドキュメンタリー私論(6-最終回)

●世界の潮流と『団地酒』

翻って世界の私的ドキュメンタリーの潮流はどちらに流れようとしているのだろうか。山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された作品を眺める限り、私事の親密さだけを身上をする様な素材主義的傾向からは既に早々と脱却を始めているように思う。たとえば2001年の山形で小川紳介賞に輝いたメリッサ・リーの『夢の中で』は、韓国人移民としてオーストラリアに暮す監督自身の家族を撮ったオーソドックスな私的ドキュメンタリーであるが、そのアプローチのしかたにいくつもの戦略戦術が張りめぐらされている。

その彼女の二作目『愛についての実話』になると、アメリカ国内のアジア人男性のステレオタイプ的イメージをボーイフレンドとの情事を通して考察するというプライベートドキュメンタリーに進展する。ところが、この作品で描かれる彼女の二人のボーイフレンドとの三角関係のすべてが、最後になって実はすべてフィクションであったことが明らかにされる。アジア人男性のステレオタイプ的イメージの畸型ぶりを描くのに、本当の私事よりもフィクションの世界のプライベート「らしさ」の方が必要になったまでのことだ。だがこの戦略と見事な語り口の戦術上の上手さには舌を巻くばかりである。

中国の女性監督ワン・フェンの『不幸せなのは一方だけじゃない』も、別れ別れに暮らしている父と母を実の娘である監督が訪ね歩くというオーソドックスな私的ドキュメンタリーである。その撮り方には奇をてらった戦術は何もないが、父と母それぞれの人生を冷たく客観的に見放す監督の冷めた目が実に印象的であった。結婚とは底なし沼に首までつかりながらもまだ言い争いをやめない夫婦のことであると、人生を達観したような視点で、実の父母の壮絶な夫婦の言い争いを眺めているのである。

一方で、この年の山形映画祭では、日本からも私的ドキュメンタリーの作品として大野聡司の『団地酒』が出品された。狭い2DKの団地で一人暮らしを続ける大野の父が、売れない画家稼業の傍らにせっせとドブロク造りにいそしむ日々が、醪のゆっくりとした発酵とともに語られるというユニークなスタイルをもっているため、その後の海外の映画祭でも評判の高かった作品である。

この日本の私的ドキュメンタリーに共通する素材主義的・自然主義的傾向は、アジアの監督達から比べると大きく水をあけられているという感じを持った。この『団地酒』にしても、その禁欲的で寡黙な語り口は、監督の戦術にあるというより素朴な素材主義の偶然の所産に過ぎないという印象を持っており、あまり高く買えなかった。

一方、世界に目を転じれば、ジュディス・へルファンドの『ブルー・ビニール』の様な私的ドキュメンタリーの快作もある。監督の自宅で両親が古くなった外壁を最新のビニール壁にリフォームし始めたところから、「我が家のビニール論争」が始まり、ジュティスはビニールの是非をめぐって世界中を旅するという一種の私的ドキュメンタリーである。

『ボーリング・フォー・コロンバイン』のマイケル・ムーアばりの突撃インタビューを身上とするヤンキ—娘ジュディスは、イタリア・ヴェニスのビニール工場の労災問題やイギリスの環境問題にまで首を突っ込み、とうとうアメリカの巨大化学企業の社長をインタビューに引き出すことに成功する。そうした動かぬ証拠を携えて我家に帰宅したジュディスは無事に両親を説得する事に成功して、真新しいビニール壁はまた元の木の壁に戻されるという物語である。


●素材主義・自然主意的傾向を排す

90年代以降、私的ドキュメンタリーは世界的に一大潮流を形作っていることは言うまでもない。それは、プライベートな世界というたしかな手に触れることの出来る地点からしか映画作りの拠点を見出しにくくなっている時代思潮の如実な反映である。デジタルビデオという小さい割には強力なキャメラという武器を手にしなければ、自己表現の表出の糸口が見つけ出しえなかった若者たちのヒリヒリとする様な飢餓感は私なりに良く分かっているつもりである。

しかし、安岡が論考している様に私的ドキュメンタリーが現代の若者たちの大切な自己表出の表現領野であるからそれを尊重すべきだという論旨には私は首肯できかねる。デジタルビデオを通してでなく、パンクロックやオタク文化を通してしか自己表出をできない若者はいくらでもいるではないか。たとえデジタルビデオを手にしたきっかけは、自己表出の絶好の機会としてであっても、それを作品として完成して第三者に見せる時には、映画としての戦略と戦術がどうしても必要になる。

そして映画監督の作家性とは、一本の作品を仕上げる過程において編集、録音、音楽といった他者と出会い切磋琢磨されることを通じて、自らの独自な戦略を築き上げた時にはじめて確立される。それはあらゆる映画に直面する古くて新しい永遠の課題である。

ただ私的ドキュメンタリーの場合、そうした作家主体の確立を待たずに生の素材の魅力だけで作品が完成してしまう危うさを孕んでいる。特に90年代後半から日本のドキュメンタリーに顕著に現われはじめた素材主義・自然主義的傾向に対して、私は老婆心から批判的見解を述べてきた。しかしそれは私的ドキュメンタリー全般を批判しようとしたものでも、ドキュメンタリーは他者と出会うべきだという教条主義に組みしようとしたものでもない。

私的小宇宙にはまだまだ無限の可能性が秘められている。ジョナス・メカスがありきたりの日常を詩的想像力によってかけがえのない一瞬の驚くべき連続に昇華させた様に、私的小宇宙には無限の可能性が秘められている。要はこの小宇宙に、どんな戦略で、どういう陣営をもって分け入っていくかという戦略・戦術が問われているのである。
(了)


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